笑ってる君を観たい、、と言われた事がある
それは自分の思いも同じ。
誰だって歪ませて怒った顔やら、
悲しさでぐちゃぐちゃな顔よりは
自分にいつも微笑みかけてくれるような人。を
『いいなぁ』と思ってしまう、願っていたりする
社会全体が《微笑み》強要するサービス業界体質
作りあげた見た目の微笑み。より
自然体の《装いの必要ない自分》でいたい
けれども、それはダメ!と強迫観念が押し寄せて
大人ぶって、無理やりにでも笑顔になろう!と
脳内は笑顔笑顔のキャンペーンを推し進めてくる
不自然な状態に心がノー!を突きつけたとき
自分に無理させてまで強制することをやめた
『したくないならしない』それを許可したの
そうしたらね、自然にほころんだよ
だってね自分を緊張させる強要、脅しをやめたから
無理やり『しなくては!』だと硬直萎縮して
笑えなくなるもの、なんだよね
現代人はこの緊張状態にさらされやすい
しなくては!と脳が渦緊張続いてるから
ねば!べき!と更に脅して緊張させてくるから
ゆるむ時間が圧倒的に足りないんだ。。。
自分に常に脅迫、強制する思考で焦らせにくる
そして『こうじゃないと!』と緊張を加速させる
笑う。にもお笑いに頼ったりする事もある。。
自然に出なくなるほどマヒさせてる感覚になってる
赤ちゃんは百面相にいそがしい
幼児期もそう、くるくる変わるその顔を
むしろ楽しく思ってしまう、親が身近で見れる
その子どもなりの喜怒哀楽の表情が愛らしいもの
いつしか。。
その顔を見せることに控えめにセーブされていき
その顔を見せる中でも怒り、悲しみは人前では
出せないようになっていく、、
感じたまんま、それを抑制したり禁止したり
それが重なれば重なるほど、身動き取れなくなる
制限だらけ。の思考がダメ!とセーブしにくる
感情が沸いたときに全力で表現していた自分を抑え
表に出してはいけない、なぜならそれを出すのは
『恥ずかしいこと』だから、と自分に許さなくなる
人は五感を感じたくてここに体験したくて
やってきたはず、なのに
出してはいけない!ダメ!と禁止するから
自然体だった幼児期のような感覚をマヒさせて
もとから感じてなかったように偽り、思考をごまかす
自分が自分の思考に言い聞かせて欲求を止める
だからとても苦しくなって当然なんだ
笑ってる君を観たい、、はそう思ってもいい、でも
笑ってるだけの自分しか受け入れない、のは
強制的に自分の感情を縛る行為だから
自分の感覚、感じたままを無理やり否定すること
それは自分の半身を否定すること
まるごと受け入れられない、笑う自分じゃないと
私はダメなんだ!という極論を生み出して自分自身で
首を締めてしまうんだよ
泣きじゃくっていたって私が私を否定しなくていい
むしろ。それが自然体なの
無理やり笑うだけの私しか許容しないから
不自然でおかしくなったりするの
人前でそうしてはいけない!と強迫観念強いほど
がまんして感情をおしころしてきた人ほど
感じた自分を恥じたり、否定してきたの
その過った、勘違いした観念、捨てていい
恥じることはいっさいないし
泣くことは自然なの
怒るのも自然なの
出さないから不自然な状態が生まれるだけなの
笑っていたって、怒っていたって
私なの
おしころした感情たちを解放した先には
緊張を強いて止めてきた自分を続ける必要なくなって
屈託のない、あのかつてのわたしのような
緩やかな自分で表現を楽しんでいるわたしに
出会えるだろう
笑っている私もいい
泣いている私もいい
そう、許可するだけでいいの、、