しくじり、と決めつけるのは、、 | けいのブログ

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リウマチを薬を使わないで治そうとしてます。気功、ヒーリングは体調改善にいい感じです。
子育て、夫婦、仲間、いろんな関係から自分の心クセに寄り添う日々。
ふと浮かんだ言葉をブログに綴ります、
よろしくお願いいたします

失敗じゃなく、挑戦だ!という概念ならば


世の中、もっと寛容さも増すだろうか


しくじり、をカッコ悪い!という思考がなければ


何度でも挑戦する姿にきっと称賛していくだろう



そもそも。。しくじり、なんて勝手に決めつける


その思考こそ、いらないよね


何を持って成功!なのかは自分の満足度による



しくじり、と自分が思わなければ何の問題もない


外側に反映するのは自分が体裁気にしい。なんだ



『みっともないから止めなさい』とか

『そんなの聞いたこともない』とか


やたら心配性な親の声に抑圧された欲求が


眠らせたままに自分の中で燻ってるなら



『どうせだーれも気にしないからやっちゃいな』



他人の目。という曖昧な抑制はもうやめよう


外の人に何を見せようとカッコつけてる?


もっと自由にみんな、もっとかぶいていい



ジョーシキは時代が移ればヒジョーシキ


たいてい、最先端をいく人は最初格好の餌食になる


後の世にはスタンダードになってるんだ



《これをやればこうなる》とおそれ植え付けて


行動制限する思考に支配されてるんだ


なぜなら、そのほうが統制取りやすいから



これからの世界には他人評価に左右されない


それがスタンダードな世界。になっていくんだろう




人は《おそれ》から保身的な態度、思考になり


自分さえ助かれば!とか


カッコつけないと!とか


失敗できない!とか


体裁にベクトルを置きすぎて、肝心の目的意識が


おろそかになっていく



おそれ。に支配されてると、動けなくなる


怖くて身を縮ませて小さく震えてしまう


自分のそのおそれを解放するのは突き動かす情熱


それでも体験したいと願う熱意なんだ



頭に思い浮かんだものは自分に興味あるもの


諦められない何か。もそう


名を残すことでもなく、ただ純粋に追いかけたいもの


日常の忙しさに後回しになってしまっていたり


犠牲的に諦めて久しいことでも



人が最期に後悔するのは挑戦する時にしなかった


その心残り。なんだよな



カッコいいとか悪いとか、どうでもいいって


思えなくて《周りの目》という幻影に囚われて


やりたい事を諦めたり、引っ込めたり、遠慮して



動けなくなってから『あーあ!』って言っても


思うように話せなかったり、行けなかったり



肉体をまとっている人間ならではの


《その不自由な体験》もまたやりたい事リストに


入っていた項目なのかもしれないけど



肉体を通してでしか体感されできない事をわざわざ


体験しにここに来てるんだよね


振動を通して心を振るわせて共振することを


楽しんでいるんだよね



この世界は一切皆苦だというじゃない?


思い通りにならない、がデフォルト世界じゃない?


けれども、すっかり忘れてその状態に


苛立ち腹を立てては騒いだりしてるんだよね



魂レベルでみたならばけっこう楽しんでいたりする


そんな視点を持てるくらい、心に余裕を持たせよう



しくじり、とかいちいち区分けして


自分のやりたい欲求抑えたり行動制限かけるの


ナンセンス!だよね


それこそ、しくじり、じゃないかな



がんじがらめの思考では楽しく生きられないよ



つまらない人生。なんていうのは


自分が《無難》コースを選び続けてるから


いつもと同じ道だけにしがみつく思考があるから


『そっちへ行っては危ないよ!』とか

『危険だからこっちに来なさい!』とか


思考はいつでも過保護なんだから


冒険する気持ちを止めようとしてくるから



禁止する思考クセに大人しくなってもらおう


制限だらけを楽しめる自分になっていくくらい