生まれてから、自分の脳内に
なだれ込んでくる、たくさんのこの世界の概念
それは、自分に不要であったものでも、
後生大事に、自分の中にいつまでも居座っていて
脳内は必要ない古くて使えないもので
埋め尽くされていたりする
50年生きてきたなら、それくらい、
断捨離なんて思考なかったから余計に
自分の希望よりも先に、周りの動向、声を優先して
その人間、概念に自分を押し込めてきて
何とか形では基準規格にうまく合わせていても
もともと、誰かの都合にいいものを取り入れて
自分じゃない基準を生きていたなら
歪んでしまうのも、当たり前の反応なんだ
心身が歪んでしまう前に、自分の声に忠実にいこう
誰の声に忠実に従おうとしていた?
それはおそれが強かっただけなんだよね
口やかましい、大人たちに制限抑圧されてきた
たくさんの不必要な言葉の断捨離しないまま
長いこと、脳内に溜め込んでいたりする
そしてそれを守るほどに頑なで生きづらいという
自分に身動きが制限されていくんだ
何十年ものの価値観を自分の今にフィットしない
古くて使えないものを後生大事に起動させても
キシキシすることになるでしょう
人は変わらないようで、少しずつ変わっているもの
初期設定されたままの自分じゃ生きづらいのも
当たり前
そして。設定が古いのは捨ててないから
見直ししないまま、長いこと放っておいてるから
多くは、親の都合、社会の都合の価値観だ
30年前では考えられない概念の変容、あるでしょ
これはやったらいけません
これはやっては危ないよ
これはやってもムダだよ
これは言っても怒らないよ
これはしたら許さないよ
・・・。
誰かにとっての都合によるルールだったり
誰かにとっての都合にいい価値観だったり
まっさらだった脳内はもはや、たくさんの不要な
使えないアプリだらけになっていたりする
起動しようもない、価値もない
そんな古くて使えない脳内のアプリは捨て去ろう
しなくてはいけない
してはいけない
した方がいい
してもいいだろうか
これはすべて、思考で判断しようとするクセ
やりたい、やらない。これが応えなのに
どこか、他人、世間体を気にした思考クセ
このマインドでしても心が晴れない
因習に従わないといけない、怒られるおそれがある
そういう理由をつけて、嫌なのにやる
そういう、せざるを得ないという心の声に
忠実じゃない、ウソつきな行動をやめていく
ガッカリさせたくない、と思って外側に合わせる
そういう生き方をやめていく
もう、しないと決めていくだけ
人間にインストールされてるというおそれが
暴れるのは、本能的なもの
集団では特に、そうしないと淘汰されてきて
命の保証ができないおそれを抱えてきたから
はみ出しものは、用なしだとおそれる思考がある
そっちの思考が勝ってるときの言動は
あくまでも社会生活の模範解答
本音が押し殺されている状態
では、本音ではどうしたい?
おそれがなければ、なにしたい?
そこに、応えが見えてくる
そこに、無理やり合わせない自分の望んだものが
見えてくるんだ
望んだりしてはいけないと卑下する思考クセは
長年の不要な生活習慣のひとつ
捨てていこう