マイノリティー | タカンナオトシゴロ

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アマチュア劇団シーブの湯飲み茶碗「キアサマトモイ」がお送りする、私的詩的妄想マテリアルワールド!!

「いじめ」

重いテーマですが少し考えてみます。

ここで言うのはDVの様な

個人間の暴力といった形態でなく

集団心理の中における「いじめ」、

についてです。

DVの様に家族や社会的に小さな単位

での「いじめ」は

その生活環境の中から

逃げる事が出来ないという

閉塞感や

フラストレーションからくる

ストレスのハケ口を

弱者へ向ける事で

解消しようとする

傾向がある様です。

しかし、集団行動の中における

「それ」は、

若干意味が違います。

生き物には

防衛本能があります。

人間以外の生き物や

昆虫にだって

それは生来、

プログラムされているものです。

それは食欲や性欲と同じ様に

本能なのです。

人間以外の生き物や

成熟した人間には

物事の中心に

「己」があります。

自分の行動によって起こる事象、

また、レスポンスに対して

責任を持つのは

「己」だと理解しています。

だから、言い訳したり

人のせいにはしない。

動植物や昆虫が

そんな事を考えたりはしません。

あるがままを受け入れる。

そんなところでしょう。

しかし、それこそが

覚悟、なのです。

そういった点では

おおかたの人間という生き物は

あまりにも

未成熟な

肉の塊なのです。

そんな人間達は弱い。

弱い人間が自分を守ろうとした時、

取る行動はほぼ決まっている。

自分より劣る者を

槍玉にあげるのです。

相手の欠点や弱点を強調する事で

自分の弱い所をぼやかしたり

あるいは正当化

しようとしたりします。

槍玉にあげる。

1対1の人間関係ならば

そんな事をする必要はありません。

手が届くなら、

暴力で抑え付ける方がよほど早い。

しかし、社会的には

それは許されません。

誰かと意識を共有すると

人は安心します。

何故安心するのか?

お互いが同類である事を確認したから。

お互い敵では無い事を確認したから。

お互いにとっての利害関係が一致したから。

そして、

自分は被害者になりたくない。

その傘の下へ

自分も雨に濡れない様に

弱い者同志が集まって行く。

やがて

元々の理由など、どうでもよくなり

いじめる事が

自分の

「存在意義」になる。

誰にでも

覚えのある話ではないでしょうか?

自覚があるか、ないか

と、いうだけで。

こんな話は分かっている?

そうでしょうか?

あなたは

そんなパラドックスの中で作られた

架空の信頼の中で

安心していませんか?


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