金曜日に何処に行くのかは全く決めていないが「週末は娘と二人で楽しく出かける」と意図を定めた。
昨日の記事はこちら
今日も何処に行くか全く決めていない。
朝方スマホで子供の遊び場を探してみたが、しっくりくるものは見つからなかった。
自宅から少し離れているが、なんとなく北千住かな?と思った、北千住にはびっくりドンキーがあるらしく、娘にいちごパフェを食べさせてあげたい。
当初は娘と二人で行く予定だったが、妻も一緒に行きたいと言い出した。
家には電動付き自転車が1台しかなく、3人で行くと一台は普通のママチャリで行かなければいけないからきつい、僕と娘と二人で電動付き自転車に乗っていくのが一番手っ取り早い。
妻が北千住まで一人で電車で行って、北千住で合流する話になり、それだったら最初から3人で電車で行った方がいいんじゃないか、そもそも娘を抱いて電車を乗り換えたり、歩いたりするのがめんどくさい。
結局自転車で行くことになった。
普通のママチャリで行くのは、あーもうめんどくさい。
目的地はは北千住、現地に着いてから観光案内所で何処に行くか決めればいい、それ以外は全てノープラン。
北千住に行く途中、娘がパパこの公園行きたいと言い出す。
隣の神社が気になったので入ってみた。
なんか見た目だけでも、ただものではなさそうな神社。
僕はお寺や神社には興味がない、初詣も行かないし、自分からお寺や神社には行くことはない。
偶然の賜物、こんな辺鄙なところに立派な歴史的な建物があることに驚いた。
娘がソフトクリームを食べたいと言うので、食べてから再び北千住へ向かう。
神社のちょっと先に偶然にも、大きい立派な公園を見つけてしまった。
「娘と一緒に面白い所へ行く」と意図を定め設定し、うまい具合に面白いところにたどり着いた。
面白い所に行くとゴールを決め、あれこれ頭をひねらなくても、向こうから面白い事がやってくる。
カッチリとと計画を立てたら、計画を立てた通りにしかならない。
カッチリとした予定を立てていたら、間違えなく、この神社も公園も見過ごして通り過ぎていたことだろう。
「面白い所に行くと」とゴールを決めるだけ、後は天にお任せ、自然と面白いことがやってくる。
娘はこの公園で2時間も遊んでいて、北千住のびっくりドンキーで晩御飯を済ませ、無計画だったが全てスムーズに動いた一日。
数週間前まで外に出れなかった自分が嘘のようだ、自分でも本当に信じられない、この記事まだ3日前、もうだいぶ昔のことのように感じる。
儚く雪のように溶けていく過去、人生とは雪のようなものか、当たり前の日常、素敵だった一日を感謝と共に今日の思い出を捨てていく、さよなら今日の自分。
昨日の記事と重複しますが、今回の出来事は矢追純一さんの生き方を参考にさせてもらいました。
ヤオイズム参照
面白い番組の作り方
私は自然流のいい加減さが好きだ。そのおおらかさがいい。実際、その方が人生格段に面白くなるのだ。後のテレビ局の番組づくりのコツも同じだった。先に細かくあれこれと調べてから番組を作ろうとすると、あとでその調べたことにとらわれてしまう。こういったものを作ろうと決めてしまうと、決めたことに沿って取材がなされ、結局、予想したとおりの番組にしかならない。なんの驚きもない、当たり前で、つまらないものができてしまうのだ。私は番組を作ると決めたら、もうそれだけだ。あとは何が起きるかを待っているのだ。作ると決める前には情報は一切入ってこない。が、いったん作ると決めてしまうと、不思議に世界中から情報が集まってくる。突然、外国の私の情報源から電話がかかってきたり、英字新聞の片隅の小さなニュースが目に止まったりするのだ。それがたいてい面白い話だった。これも不思議としか言いようがない。あとは、何も考えない真っ白な状態で、私は取材スタッフと共にいきなり一つの現地へ行く。現地で取材が終わると、さらに事態は思わぬ方向へ進んで、取材をした人が今度は別の角度の驚くべき情報をもたらしてくれる。その連続で次々に取材ができていくのだが、次に何が起こるかわからない。番組を見ている視聴者も取材をしている私も次どうなるかが分からないから、ドキドキ、ワクワクだ。結果、とても楽しい番組が自然にできてしまうのだ。こうしたことは、事前に考えても予測がつくことではない。何も考えずに、流れに身を任せているからこそ起きてくることなのだ。しかも、あとで考えると、すべては絶妙のタイミングで進行している。まるで目に見えない演出家がいるかのようだ。