天の星にあやつられているのではない。
星は、あなたの中にある!

 

わたしの中に、ある。
 

あなたの中にある星をどのように生きるかは、実はあなた次第!
 

わたしが伝えたいのは、嫌なモノは嫌だと言っていい。

 

それだけなのだけれど・・・。


その気持ちを抑え込み、その気持ちに呑み込まれるな!
 

どんな家族に生まれようが、主体は他の誰でもない。
 

主体はあなただということ。

しかし、現実は言葉で言うほど簡単ではない。
 

それが証拠に、幼少期に嫌な感情を、僕は嫌だ!
 

そう言うことができずに、「NO」を言えずに、

 

他者の感情をどこまでも優先し、
 

自分の感情を置き去りにし、

 

やがて自分の感情を瀕死の状態にまで、無意識に追い込んでしまったのは、
 

他でもないわたしでした。
 

今思っても、あんな激情の親の感情を前に、

 

4,5歳の子どもがどうして「NO!」と言えるだろうか?

 

ビビって、言えるわけない!

 

今となっては貴重な証拠写真、幼稚園のアルバムの集合写真の瀕死の表情をしているわたし。


わたしは今になって、自分を憐れもうとしているわけではありません。
 

もうあるがまましかないのです。

 

もう飾りようがない、ないのです。

幼少期の癖、習慣、刷り込みの怖ろしさ、
 

その後、さらに良い子を何の疑いもなく演じていたわたし。

 

それが賢い生き方だとでも思っていたのか?
 

幼少期の癖、習慣、刷り込みの怖ろしさ。

 

その恐怖から、逃げるしかなかったということに気づけたのも、

 

40歳を過ぎてからだった。
 

その怖ろしさからずっと目を背け、

 

ズタズタになっていた自分の感情にさえ気づけなかった。
 

自分の感情ががらんどうだから、

 

当然、何をしたい、何をしようという意欲も意志も、
 

生まれようがない。
 

みずから主体のない人生を生きて、

 

刹那的にのみ生きて、

 

全く未来への展望がなくどう生きていいかわからないと、

 

実はもがいていたさえいなかったわたし。
 

~不機嫌で欲求不満の親は、自分の判断や自分の感じ方を捨てて、
 

親の気に入るように行動する子供を良い子と信じる。
 

過剰適応の子どもの内面は恐怖で満たされている~(加藤諦三「自信」より)
 

何より一番大切なものだと思っていた親との関係性の中で、

 

実は、その親との幼少期のやり取りの中で、 

 

自分の主体性、感情をことごとく奪われていた現実を想い知らされる。

 

世の中には、こんな思いを抱えながら、親には感謝しなければいけない、
 

親とは敬うものだという概念、常識に絡めとられて、モノ言えぬ人たちがどれほどいるだろうか?


わたしの場合も、どうして自分はこんなに無気力で、

 

何ひとつ主体的に取り組もうとしない人間なんだ?

 

完全なひきこもり状態ではないが、どうして、ひきこもろうとする心性がやまないのか?

 

人となるべく会わないようにしようとするのか?

 

それは幼少期に刷り込まれた怖れ、恐怖だったと。

 

親の人生、親の家族、祖父母などのファミリーヒストリーを深く辿り、紐解いてみた。

 

そこに何か手がかりがあると信じて。一族の抱えた悲しみ、苦しみの源を辿ろうとして・・・。

 

何度涙を流したかわからない。

 

わたしは、自分の人生より、父の人生の方をことこまかに語ることが出来る。

 

これはあきらかに歪んでいる。

 

主体的に、意志的に自分の人生を生きていないから、

 

まず父の人生ありき、

 

わたしは常にそのサポートの役回り。

 

父が主であり、わたしは客体にすぎない。

 

だから、わたしの人生の記憶がはなはだ曖昧。

 

共感するあまりに、父を中心とした他者の気持ちを推察し、分かろうとするあまり、

 

自分の感情そのものを一番おろそかにしていることにずっと気づかないでいた。

 

自分の感情を吸い取られて、枯れたトンボのようになって死にかけたことがあった。

 

そんな自分の状態を体感したとき、はじめて、自分が生きなければいけないことを悟った。

 

感情の問題は、生きるか死ぬか!に直結している。

 

そのことに気づかされた。

 

わたしの幼少期の問題も、父が生きるか、死ぬか?

 

わたしが死ぬか、生きるか?

 

家族の共依存の問題も、すべてそこに由来することも了解した。

 

父とわたし、その後の二人の人生をならべてみても、

 

生死に直結する問題だったと分かる。

 

このブログでわたしが取り上げた多くの人々も、「感情の死」を遂げた人は少なくないように思う。

 

そのことを、言葉の上だけでなく、わたしみずからの体感として感じることが出来た。

 

これからは、自分の感情、自分の主体性を何より大切にしていかなければいけないと、

 

思い知らされた。

 

2年前に亡くなった父に丁寧にこの話をしたとしても、

 

おそらく理解できないだろう。

 

それはそれでいい。

しかし、今わたしは悲観しているわけではありません。
 

だからこそ、わかったことが山ほどある。
 

自分自身の主体的な人生をまるで生きられなかったこそ、
 

主体的な人生を勝ち取るために、何が必要なのか?
 

わたしと同じような想いを少しでも抱えて生きている人々に、

 

わたしのしくじり人生と、

 

主体的な人生を取り戻し始めているわたしのプロセスの中から、

 

星読み、家族心理を通じて、
 

ささやかでも今伝えられることもあるのかもしれないと感じています。
 

わたしは今、主体的に、誰のものでもない自分自身の人生を創造できる。
 

たとえどんな嘆き、悲しみ、成仏できない感情を抱えた親などの環境があったとしても、
 

幾つになったとしても、自分の純粋な主体を取り戻したいという気持ちがわずかでもあれば!

 

大丈夫!だと。

 

5歳の頃に、激情の父に言えなかった「NO!」を、今こそ何度でも言いたい!

 

5歳の頃の自分を守ってあげるために言いたい!
 

父を生かすためではなく、

 

わたしが生きるために。

先祖から綿々と続いてきた家族の悲しみ、苦しみを一身に抱えてきた父に寄り添い、共感し、

 

そんな父を生かすためでなく、

 

ただ、わたしが生きるために。

 

そんな父にあえて「強烈なNO!」を叫び、

 

わたしがわたしの自動詞の人生を生きていくために!

 

昔の思い出をすべて、懐かしいいい思い出に変換しなくていい!

 

ふざけるな!そんな怒り、叫びこそが、生きる、生きていくエネルギーになってくれる。


 

最後に、再び加藤諦三さんの「自信」の中の一節より・・・

 

~自信のない人は、小さい頃から正当な怒りを表現できないできている人だ。『自分に負けない生きかた』

 

血縁関係につけこまれるな。

 

愛という名のもとに、いかに多くの幼い心が痛めつけられてきたか、

 

愛という名のもとにいかに多くの抑圧がなされてきたか。


いま、あなたが自信をもつためには、その抑圧をはらいのけることが何よりも必要なのである~(加藤諦三「自信」より)