日本・アメリカ・ドイツを拠点に演奏するドラマー・アーティスト aine wie keine
aine wie keine名義で2023年にリリースした1st ミニアルバム "aine wie keine"
ウェブサイトからご購入頂けます⭐️
https://www.ainewiekeine.com/product-page/wie-keine
今年に入ってから、1月はアメリカ、2月はスイス、3月はベルリンで過ごし、まぁ、基本的にのんびりした生活をしている。物価の高いところで過ごしたので、食事毎に「これでこの金額!!!」て目ん玉が飛び出ることも度々。
だって、片手で軽く握れるサイズのブリトーに20フラン(最早この円安で三千円くらい?)とか!リハーサルの為に一瞬乗る電車がたった二駅で7フラン(千円くらい?)とか!!!友達と気軽に食べに行くディナーが80ドルとか!!!(一万三千円くらい?)普段1ヶ月50ユーロ(七千円くらい)でドイツ全土にアクセス出来るチケットを駆使し、10ユーロでお腹がいっぱいになる場所に住んでいる身はそういう場所に行く度に震える。
それでもアメリカに行くのは、そうでもしないとそれを安いと感じる感覚の人とベルリンではなかなか出会わないから。震えながらメニューを見て、それでもそんなところに遊びに行くのは、気楽に使えるお金のキャパを増やしたいという思いがあったりもするからで。ええ。ドMですね。
そうしてひーひー言いながらベルリンに戻って来て、1ヶ月久々の一人暮らしを堪能し、そこからこのカオスの中で『いい加減仕事しないの?』と自分自身にツッコミを入れながら、予約したのはアブダビへ行くフライト。笑
友人を訪ねて、1週間の旅行をすることにしました。
ベルリンでやらなければいけないことを全てほっぽって、とりあえず今は頭の中を空っぽにする!とばかりに。こういう機会でもないと行かないだろ、アブダビ。
初日はいきなり優雅なスパ併設のビーチで海を見ながらのんびり。
2日目は早速ドバイへ旅行に行き、近未来都市みたいな、高層ビルばかりが立ち並ぶ地区でアフタヌーンティーをしたり、最早一つの街みたいな巨大モールの中を、、、眺めて歩く。笑 元ツアーガイドの友達のお陰で素敵なレストランで美味しいアラブ料理を食べたり、パーフェクトな旅程⭐️
翌日はオールドドバイの市場で値切り交渉したい!という友達とゴールドスークやスパイススークを見て回りのんびりとご飯を食べて、ドバイからアブダビへの帰路は乗合タクシー。
自ら出るより、最早この世界のいいとこ取りを自分達の国に呼び寄せているような、そして日本の富裕層が続々と移り住んでいる国で自分が何を感じるのかな?お金が動いている感覚を感じられるかな?と自分の反応に興味津々で行った旅行でしたが、勿論その最新技術の連続や高層ビルを十分に楽しみつつも、なんとなく感じる自分の価値観との相入れなさ。勿論エミラティに会ったわけでも、自分のそれとはかけ離れているであろう彼らの日常を垣間見たわけでもなく。そして物凄く安い賃金、もしくはあってないような人権の元に働いている人達を見かけたわけでもなく。そこで自分が見たのはどこにでもいるような、ひたすら生活の為に働いている、疲れた顔をして電車に乗るインドやフィリピンから来た普通の人々。上部だけで通り過ぎるキラキラしたショッピング街。
あたしがやりたいのはここにはない、というのは分かりきったことではあったけれど、沢山のお金を稼いだとしても、自分がやりたいことって今持っているビジョンと変わらないなぁ、、、、という気持ち。逆に言えば、その想いが更に明確になったということで、やっぱり行って良かった!とは思ったものの、ここで人は何をしているんだろう???という疑問は拭えず。
産み出したい!!!
と強烈に願った自分から出てくるのは、あたしはなんならあのビルを建てる人になりたい、という思いでした。
高層ビル群も、古い街並みも、自分の想像を超えてはこない。
それを楽しむ自分よりも、自分がそれを創り出す存在になりたいと思わされるばかり。
それなら。
もしかすると圧倒的な自然の中にぽつんと置き去りにされたら、想像を超える気持ちになるかもしれない。
そんな期待を胸にしたあたしに、4日目に友人夫妻が企画してくれたのはなんと、砂漠への1日旅行。しかもキャンプ!
これは予想を超えてくるのではないかと思ったけれど、もう本当にその通りでした。
アブダビから車で3時間半ほど。
「サウジアラビアとの国境近くだから、お酒を持って行けないんだ、ごめんね」と言うガイドさんの発言が新鮮。
舗装道路を外れること30分ほど、360度見渡す限り砂しかない景色に到着しました。
圧巻。
本当に、何も言えない。何も考えられないくらいの無。
圧倒的な日差しで目を開けていられないくらいだけど、でもずっとそこに座ってひたすらじっと眺めていたくなる。
普段どれだけ沢山、しょうもないことばかり考えているんだろう。
その容赦のない太陽の光は、外に出た瞬間から脳を溶かして何も考えられなくなる。
砂と空しかないその景色に、脳を刺激してくるような情報は何もない。
『しーんとしている』というのは擬音なんだな、と初めて気がついた。自分の耳鳴りしか聞こえない、完全なる無音状態の中に座ってひたすら砂を眺める。
10分もそうしていたら水を飲まないと死んでしまうような環境で感じるのは恐怖かな、と思っていた。
自然に対する畏れかな、と思っていた。
予想に反して、そこで感じたのはなぜか、圧倒的な安心感と、愛。
それでも生えている少しの草と、どこからか餌を求めてやってくるフンコロガシ。
遠くからこちらの様子を伺っているようなガゼル。
こんなところにも生命がある、という事実。
そしてそれにも増して、ただただ、その景色から感じられる「自分はいつだって誰かに見守られている」というような安心感。
どんなことがあっても、それは最早自分が足掻いたところでどうにもならない、何かの一部として起きていることだと、受け入れるしかないような。
それならば、甘んじて委ねてしまうしかない。
この数週間、もしくは今年に入ってから、なんなら人生のある時点から常に持っていた漠然とした未来への不安みたいなものが、持っていてもしょうがないものだとストンと腑に落ちるような気がした。
星空の元で、友人達と人生哲学みたいな話をして、固いシュラフの中で短くて濃い眠りを取っていたら、突然目が覚めた。
時計を見ると前夜調べた夜明けの時間きっかり。
本当に、鳥や虫は夜明けの瞬間を察知するのかも、と思った。
穴の中で冬眠している熊が春になると外に出てくるような。
自然の中に生きているものは、何かそういう本当に大きな動きの中の一つでしかない自分を知っているのかも知れない。
太陽の、ほんのてっぺんの薄灯が見えて来ている東の空に向かってまたひたすら座ってじっとその全てを見つめる。
太陽の光すらまだ完全には届いていないこの空間にずっといたいな、、、と名残惜しく思うも、太陽がその全てを現したらあっという間、きっと1時間後にはまた何も考えられなくなるような暑さになるだろう。
そんな風に思う自分は清々しく、朝ごはんと帰り支度に気持ちを切り替える。
市内に戻り、普段の生活に戻るとあの感覚はすぐに忘れてしまうけど、ふと立ち止まった時にあの砂漠での静けさに身を置けば、あったかい気持ちと一緒に思い出せる。
色々とギリギリ状態で向かった旅から戻って二日目。
遂に大きく動き出した。
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