何でそんなにも自信が無くなったんだろうなと思う。
井の中の蛙が海を越えて世界の大きさを知ったからか。
思い通りにはならない人生の悲しさを知ったからか。
時間をかけても上達しない自分に嫌気が差したからか。
認めてもらえない悔しさを覚えたからか。
どうしてあんなにも物事を重く考えるようになったんだろう。
人生というものは真剣に考えなきゃいけないとどこかで学んだのか。
失敗しない様にしっかり学べとどこかで教わったのか。
何かをしても、しなくても、ある日突然周りから除け者にされると知ったからか。
いつから音楽に良いとか悪いとか、正解とか間違いが出て来たんだろう。
楽器というものを触り始めた時、それは自分にとっては遊びでしかなくて、自分にとっての喜びや挑戦でしかなくて、手当たり次第にそこにある楽譜をただ弾いていた。
つっかえる事も、指が回らないこともどうでも良くて、ただ無心に弾いた。
同じ家には間違える度に舌打ちをしてイライラしながら弾いている完璧主義者がいて(笑)、間違いを薙ぎ倒しながら勢いに任せて兎に角最後まで弾くということしか頭になかったあたしは「あんな風に弾いて何が楽しいんだろう」としか思えなかった。
あたしにとって音楽はそのくらいどうでもいいものなのだ。
完璧なものを追い求める為に始めた訳ではない。
ただの遊び。
ただの喜び。
大袈裟に考える事は無い。
音楽を演奏出来なくたって死ぬ訳じゃない。
あたしの音楽を聴いて誰かの人生が変わる訳でもない。
もし自分の何かがそこまでの影響を与えるとしたらとても光栄な事だけれど、それが目的で演奏している訳では無いし、他人に影響を与える為に曲を書いている訳でもない。
誰もあたしの音楽に興味なんて無い。
だからこそ
自分に一番正直に、自分が一番楽しいと思える時間にしないとダメだ。
そして、自分が一番楽しい時間というのは、そこに起きている音楽を大事にして、見えない靄の中から浮かび上がる音楽に形を与えることだから、同じ様に考えて、そこを目指して演奏している人達と一緒に全力で演奏していたいと思う。
そんな事を考えていたら、Elizabeth GilbertがBig Magicの中で正しく同じようなことを言っていたので、宜しかったら読んでみてください。
そんな中、去年見つけたコミュニティオーケストラというものに初めて昨日の夜参加して、「音楽に対して間違えることを何も恐れていない自分」というものを久し振りに経験した。
20数年ぶりに、アンサンブルの中でトランペットを吹いたのである。
まぁ、正確にはびっくりするくらい仕事のなかったボストン時代に、いきなりトランペットでクリスマスギグに応募して、教会で吹かせてもらったことはあるんだけれど。それ以来、仕事としては勿論、楽しみとしても吹いたことはなかった。
何か新しい事を、やってみたい事、やってみたかった事をやる年にしようと思ってもう4分の1が過ぎて行きそうだけれど、ちびりそうな程、吐きそうになる程の挑戦と同時に、こういう小さくて、どうなろうが自分も誰も気にしない挑戦もちょこちょこしている。
コミュニティオーストラ。
「あたしのレベルで入って大丈夫かな?」とついついオーディションとか、技術レベルとか、色んなことが気になってしまっていたあたしだけれど。
実際入ってみたら、あたしの耳ですらビックリするくらいのなかなかな仕上がりになっていて、
おお、チューニング、、、。
なんと自由なテンポキープ。。。
臨時記号どころか調号すら無視ですか。。。
とか。笑
みんなが初見で初めて演奏をする時には、その現代音楽的な仕上がりにビックリすることの連続。笑
いや、絶対そんな曲では無いし。
てゆーかジブリだし。笑
なのにビックリして飲み込まれてしまいそうなカオス。笑
だけれど、それをオッケーとして、自分も盛大に間違えてみる。
グチャグチャになることを恐れずに、まず音を出してみる。
その位の気軽さで人生を生きたいんだと思う。
だって、あたしはそんな感じの子供だったもん。
根拠も無く自信満々で、でも時々よく分からないところでビビっている。
結局この世の事は、自分が自分にOKを出して、自分に責任を持って選択するだけなんだろう。
どうお金を使うのか。
誰と一緒にいるのか。
着る服も住む場所も食べるものも運動することもどんな仕事をするのかも。
誰が正解を知っている訳ではない。
自分にしか正解は分からない。
それだって、トライ&エラーを繰り返して、経験を積んでいくだけ。
だから、完璧主義者のまま、傷付くことや失敗することを恐れて高みの見物を決め込むより、失敗も、誰かの失笑を買う様なことも、愛をベースにして自分に正直に、誠実に行動する。そして自分がどういう人間なのかを知っていく。
人生ってそれ以上でもそれ以下でもないから。
だから、ビビるなよ、あたし。