原爆資料館への目的
長崎平和会館
朝8:30オープンなので、それに合わせて8:20に長崎原爆資料館の駐車場に入りました。
空がとても綺麗です〜
朝は駐車場ガラガラでしたが、お昼前には満車になっていたので、早めに行動されることをおすすめします。
↑は原爆資料館に隣接している平和会館で、とても立派です。
↓原爆殉難教え子と教師の像
長崎原爆資料館
メインゲート
地下への階段
中に入ると、地下に降りて行きます。
地下に進むに連れ、壁に書いてある年代が古くなり、1945年の長崎原爆まで遡ります。
(↓下から見上げた写真です〜)
※資料館の中では、フラッシュ撮影をしなければ撮影可能です。
原爆により壊れた浦上天主堂。
実物が飾ってありました。
この後、新しくなってる浦上天主堂を見に行きました。
当時の写真と映像
原爆投下後の当時の画像が映像でたくさん流れていました。
ご遺体画像も、たくさん出てきました、
大人から子供まで、様々な状態での画像でした。
衝撃的な画像もたくさんありました。
次女ちゃんにとって、とても怖くて辛い画像ばかりだったと思いますが、興味深く動画を見て話を聞いて、状況を理解しようとしてました。
原爆当日の話メモ
長崎は三菱長崎造船所工場がある重要な軍事基地だった
8/9朝から断続的な警報が鳴っていた
B29が原子爆弾を上空9000メートルから投下
午前11時02分爆発
プルトニウム型原子力爆弾
上空500メートルの位置で爆発
長崎上空視界不良のため予定と3.4キロずれた
摂取およそ数100万度で、
もう一つの太陽だった
紫外線、可視光線、赤外線
爆発影響11キロに達した
粉塵を巻き込みながら原子雲(きのこ雲)が巻き起こった
67の街を消失された火災は夜になってもおさまらなかった
中性子線とガンマ線、引き続きプルトニウムの分裂によって生じた核分裂生成物からβ線γ線が放出され続けた
爆発後1分以内に放射された初期放射線という
α線β線は地上まで到達できず、
ガンマ線中性子線が人体に甚大な被害と植物の生成にも大きな障害を及ぼした
放射線は五感で感じることが出来ないので、今も完全には解決されていない
原爆によって被害を受けたエリア。
予定では三菱長崎造船所あたり(↓図の下の方、港に近い方)を狙いたかったと思われるが、上空に霧がかかっていて視界不良だったため、3.4キロずれた。
そのため三菱長崎造船所ではなく、学校が多くある市街地上空で爆発した。
原子力爆弾の放射線について
原子雲から中性子線とガンマ線が降り注ぐ図
α線β線は地上まで到達できず、地上に到達するのは中性子線とガンマ線
地上に到達した中性子線によるプルトニウム分裂によって生じた核分裂生成物からβ線ガンマ線が放出され続けた
ガンマ線と中性子線が人体に甚大な被害と植物の生成にも大きな障害を及ぼした
現在の核爆弾保有数
ご存知の通りロシアが最大数で、若干少ないがほぼ並んでいるのがアメリカ。
被爆者家族による手紙や記録
長女さんとこの手紙を全部読み、家族構成を把握して話し合いました。
このご家族はお子様5人。父親・母親・長男・次男・長女・次女・三女と、他にも父方祖父母と、父の弟妹との大家族。
原爆の日からの手紙を読むことで、家族のうち誰がどういう風に亡くなったか、この手紙を寄贈したのは誰か、などを読み取りました。
30分くらいかけましたが、とても重要な時間でした。