今日は、ひとの死について。

@メッセージ書かれていた文です。

 

お宝ポーチとお宝番を持っております。

おかげ様でお金には困らない毎日です。

仕事も*歳で社員で見つかりました。

忙しくても幸せを感じていました。

 

しかし1ヶ月後に、

朝まで元気だった夫が突然亡くなりました。

何がいけなかったのか、

あまりの現実とは思えない出来事に、

未来が見えなくなりました。

私の行いがいけなかったのかを考える毎日です。

 

辛いですね。

 

死は誰もの明日にあるものですが、

生きているときは期間はわかりません。

しかし寿命は決めてくるといわれています。

 

色んなものが見える方たちは、

皆さん大体そう言います。

それが本当かどうかはわかりませんが、

その一説は、生きている私たちを、

少なくともホッとさせる力があります。

 

私は去年、

同年代の友人を3人突然亡くしました。

ひとりは、1週間前まで普通にメールしています。

ひとりは、2週間前、一緒に遊んでいました。

もうひとりは、かつて非常にお世話になり、

恩返しをしないうちに別れがきました。

いずれも発作など突然のことだったのですが、

ここまでの寿命だったのか、と

そう思うことでほんの何%かは、

諦めがつく気もします。

しかし哀しみは消えません。

無念な気持ちが少し薄れる程度です。

 

私の知り合いでも、

「朝起きたら父親が息をしていない」

どうして夜中異変に気づけなかったのか、

なにかその前にサインはなかったのか、

長く自分を責めていました。

このメッセージをお書きになった方、

あなたがいけなかったわけでもないですし、

もちろんご主人がいけなかったわけでもない。

時間がきたということだけなのかもしれません。

 

そこに納得できないのだと思います。

ではどうであったら納得できるのでしょうか。

 

ひとの死は、

誰かは後悔をし、

誰かは反省をし、

誰かは怒るものです。

すべては哀しみの上にです。

 

終末までの看病など、

もうやるだけやってきたひとでさえ、

後悔や反省は残るといいます。

 

どういう最期でさえ、死の別れには、

つきものなのでしょうね。

そこから逃れるには、

死の恐れから自分を解放するしかないのかもしれません。

 

この間、クリスチャンの友人が、

家族が末期癌であることを知りました。

一気にもう食べられないほどの状態です。

その彼女は、微笑みながらこう言いました。

 

私は、信仰があるので、

死は終わりでないと知っているので、

まったく心配も不安もないのよ。

 

信仰の力はすごいと

改めて思った瞬間です。

死は「最後」と信じていないからですね。

何が言いたいのかというと、

死やお墓、それらの「解釈」はすべて

生きている人間のためのものであり、

本人はなにも関わっていない世界で、

私たちは苦しんだり楽になったりしているように思います。

 

そこに真実というものは、

ひとつではないと思います。

 

こんな言葉があります。

 

神のなさることは

すべて 時にかなって 美しい。

 

偶然はない、ということです。

すべて完璧なタイミングで起ります。

その出来事に解釈をつけるのは、

見ている私たち自身なのです。

 

正解を見つけるのではなく、

どういう解釈をすれば、

いま前に進めるのか。

その意志と力を持ちたいを思います。

 

ちょっと答えになっていないかもしれませんが、

@メッセージの方へ、

優しい気持ちを抱いてみてください。

ご自分にです。

無理に解釈をよく作る必要もないと思います。

休んでくださいね。

今はそういう時間だと、

立ち止まって考えるときだと、

そう思って、その時間を味わうことです。

今しか味わえないからです。

納得できなければ納得しなくてもいいのです。

心の中が溶けていくと、

そのうちに答えも見つかるでしょう。

あなたが乗り越えていかれることを、

私は信じています。