象の夢を見たことはない -37ページ目

生きることの暴力性

ディストラクション・ベイビーズを見た。

そうか、物語性というのは脳が作った幻影であったのか。

一回性の人生に、脳の妄想の産物である物語というのは当てはまらないのだ、実際には。物語というのは宗教と同じだったということにふと気づいた。

 

青山真二の『Helpless』を最初にみたのが、不条理な暴力との出会いだったような気がする。

 

 

子供のときには、常に不条理な暴力と対峙していたわけで。それは、近所の年上の子だったり、親であったり、家庭内でもそうで、自らが非力であったときには常にそのような暴力にさらされていた。

いつの間にかそれに対処できるようになった気がするのだけれど、子供たちは実はそうではない。いじめという現実と向き合っている子たちは、そんなふうな暴力に日々さらされているわけで、そういうのは大人は忘れてしまっている。

一回性というのは、そういうふうな状況に身をおくことであって、命がけの一瞬一瞬が続くことなのだろう。救いはない。浅く考えすぎていたようだ。

ひさびさに生の暴力を思い出した。

 

小学校の校舎のコンクリートの乾いた溝に水が流れていく光景。

 

物語や宗教は、ゴールに目的を設定する。

しかし、生きることに目的などない。

生きることは本質的に不条理なのだ。

そういう当たり前のことを忘れてしまうことは、ありがたいことだが、人生そのものを見失わせる。

 

 

 

 

参考:from wikipedia

  1. ^ 大場, 正明 (2012年1月31日). “真利子哲也 『NINIFUNI』 レビュー”. Into the Wild 2.0. 2013年6月15日閲覧。

 

 

松阪マクサ tricot 対バン:yonige

っていうのに行ってきた。

 

2017.09.14 Thu 18:30open/19:00start
◆前売¥3,000/当日¥3,500
drink=¥500
※整理番号付 

チケット一般発売日 7.17(月)10:00~
 

自分はB52。発売当日の10時過ぎにセブンイレブンで買ったのだが、Aの1番から呼ばれて、Aの100番。そのあとにBという順番で入場。途中空き番はあったようだが、結構早く買ったのに、やはり先行予約がA番台だったのか。

ただ、SOLD OUTではなく。それで逆に観やすかった。

 

終了時刻は10時だったのでまるっと3時間。

転換時間が10分くらいだった。短い!!

最初はyonige。

 

 

ベースのtricot愛強すぎなMCしか残ってない笑

あとでさんざん彼らに寝屋川のヤンキー扱いされていたが、いやいや滋賀のヤンキーもなかなか相当なもんだと思う。

 2017年9月20日、ワーナーミュージックジャパンのレーベルunBORDEよりメジャーデビュー予定。

そりゃメジャデビューするっしょっていうメロディライン絶妙なところへ、いかついゴールドトップのレスポール。牛丸ありさちゃん。ハーフだとはわからないくらいの大阪っぽさがすばらしい。かわいらしい感じだったが、こんなエピソードもちとは。ええわ。

 

で、tricot。

 

 

予習せずに行ったら、やはり変拍子。なかなかハードに乗り遅れた。というより乗れない苦笑。難しい。予習しても乗りきれないだろう。

ヨーロッパツアー挟んでのvs47対バンシリーズの後半戦だったらしく。

アメリカにツアーに行くと、向うのシンプルに音だけデカいというアレにやられて、だいたい細かいアンサンブルが壊れるバンドが多いのだがヨーロッパだとそうでもないのか。なんかやっぱりベテラン感が出てて。こなれてるわ。MC面白いし。三重くんだりまで来てくれたおかげでやっと見ることが出来ました。

おおきんな。by ぎゅうとら。

 

yonigeはここマクサで12月にワンマンがあるのだが、帰ってネットで調べたらもう既にソールドしていたみたい。

どっちもそうだが、勢いがあるバンドはお客さんがやっぱりすごい。ノリが出来上がってるし。久々に若いエキスをもらったわ。吸い込んでやった。

動くもの

 

テオ・ヤンセン。
人は、何をもって生き物と見なすのか。
もちろん、作り物だと知っているわけだけど、子供にとっては、案外その境界はあいまいかも知れない。
夏休みの子供たちは、この夏どんな新しいものに出会っただろうか。
 
この美術館であれだけの人がいたのは初めて見た。
子供が美術館にいるのはいい。
だが、持ってるカバンを振り回すのはよろしくない。親が気付けよ。
まあ、だから館内の案内係の人を増員してたわけだが。
割り箸では作れなさそうだった。
夏休みの工作にはハードル高い。
 
 

描写と虚飾、本質と実存

今見ている映画 『マルメロの陽光

写実がどうのこうのいうわりに、常識として知っていなくてはいけない映画を観ていない。今頃観ている。今頃、アントニオ・ロペス・ガルシアなわけで。まあ、とっかかりが日曜美術館の犬塚勉だったし。

だが、観ている途中で、これは観たことがあると。すべては覚えていない。が、見覚えがあるシーンに出くわす。いったいこんな映画、自分はいつ見たのだろう。スペインに行きたくなる。だが、この映画にでていた景色は今はもうないだろう。

 

ジャコメッティについて。

ある人がジャコメッティ展の感想を書いていて。「どこかにポーズというか他人の目を意識してこうなった感がある」って書いていたのが、なんとなく気になって。以前NHKフランス語講座を録りだめてたときに誰かがジャコメッティについて言ってたぞと思ってキャビネットを掘り返して見つけた。清水康子さんのフランス文化シリーズ。ジャン・ジュネの回があり、そこで彼は親交のあったジャコメッティについて話していた。

当時のパリの美術界は、印象派、象徴主義、アールヌーボー、フォーヴィズム、シュールレアリズムなど、百花繚乱であり、同時に思想も、実存主義のサルトルだとかがいて。美術が人の知覚とか認識の部分へ入り込んでいった時代に、哲学的な裏付けを必要とした彼らは、哲学者に媚を売り、また何をも生み出さない哲学者たちのあるいは文学者たちの芸術家への憧れというのが一方であり、それらがお互いを強く惹きあわせた。この時代に芸術家が意識していたのは哲学者や文学者の目であり、実存主義的といわれるジャコメッティの彫刻も、なぜか自分にとっても虚飾に見えるのはこの辺りに原因があるように思える。肉を削ぎ落としたから実存なのだというあまりに短絡的な考え方から実存主義的と言われているんじゃねえのかとうがった見方をしたくもなる。

 

まあ、ピカソ、ダリ、サルトルなんていう虚飾に満ち溢れたあまりに人間臭い人たちとも親交があったジャコメッティ。その頃の話を読むとどうやら彼自身もいろいろ人間臭い問題も抱えていたようで。

人間そのものが虚飾であるなら、実存主義というのはそういう意味であると。実存は本質に先立つっていうのはそういうことだよと、実存主義にはじめっからそういう解説がついているなら「ああ、もっともなことだ」と自分は納得したかもしれない。もうちょっとわかりやすく書いてくれよ、サルトルと。

 

ここで時間が来たので、続きはまた今度。

リアルのゆくえ

SWITCHインタビュー達人達 「種田陽平×MIKIKO」

映画『スワロウテイル』の美術監督とリオ五輪の閉会式の「トーキョーショー」の演出振付師。どちらの話もよかった。種田氏の話で、リアルに見せるための誇張という部分で、少し考えさせられた。この間から、夏が終わりそうな勢いで、『スワロウテイル』のサントラをずっと聴いていて、番組を見て久々に『スワロウテイル』が見たくなり、映画のブルーレイを買ってしまった。

 

 

日曜美術館「見つめる眼 震える心 由一、劉生 ニッポンの写実画のゆくえ」

「バーチャルリアリティー全盛の現在、写実を描き続ける画家たち。なぜ写真でなくて絵画なのか?」という問い。スーパーリアリズムの絵は今回の番組の対象になっていなかったが、正直、写真を見ながら描いたスーパーリアリズムの絵は曲芸ではあっても美術ではなく、それこそ写真でいいということと個人的には受け取った。

 

写実についてずっと考えてきたが、描写が表現を超える、あるいは、表現しつくす。細密にそれを行うことによって、人がそのものに最初に出会った瞬間に立ち返ることができる。鑑賞者としては、そうした超細密に改めて出会うその瞬間こそが、そこに立ち返るための唯一のチャンスなんだとそんなふうに一旦結論づけていた。今回の日曜美術館を見て、少し違った見方を得た。

 

番組で、画家の水野暁さんが浅間山の絵を、3年間同じ場所から山を見続けて描いた過程を見て、またその時の話を聞いて、この過程は、子供がゲシュタルトを得る過程と相似なのではないかと気づく。ゲシュタルトは、「ゲシュタルト心理学の基本概念で、全体を、部分の寄せ集めとしてでなく、ひとまとまりとしてとらえた、対象の姿。形態」のこと。小林秀雄と岡潔の対談「人間の建設」で、岡潔が1の概念について語っていた。

 

画家にとって、生理的な「一」を再獲得するための過程が、写実である。風景は刻々と変わる。水野さんの先輩である磯江さんは水野さんにこう言ったそうである。『物の形を簡単に決めるな。本質を感じてから描け』。

水野さんも、この絵を描く過程で、「形を掴んだと思ったら、それは次の日にはひっくり返される」という経験を何度も味わったとか。それは、ただ単に風景が昨日と今日で変わっているせいだということだけではなく。

部分というのは、全体を意識することで「再」発見され、全体というのは、部分を意識することで「再」発見される。

一というのは、あるいはゲシュタルトというのはそういうもので、人は「一」を再び得るために日々更新し続けなければいけなくて。

 

プラトンのいうイデアは、岡潔氏の言う一度目の鈴の音の経験であり、二度目の鈴の経験が情操を生み、三度目の経験が我々が実際に意識して出来得ることである。

情操はある種の過剰を必然的に含む。つまり情操は、種田氏の言うリアルに見せるための誇張を含んでいる。そういう意味では、いわゆる写真を使って描いたスーパーリアルな絵画は、「哲学的には」正しい方法論かもしれない。ただ、でもそれなら写真でいい。

 

おそらく、画家の鈴の音を再現しようとする作業そのものが人生と相似なのだろうと。そこに我々は感応する。写実だけではなく、もしかしたら、良い芸術というのはそういうもので、鑑賞者として、その絵がいいか悪いかというのは、鑑賞者が自らの意識の中の、部分と全体とを同時に感じられる、自らの全体性を揺さぶられることによってそれが感じられる作品か否かということが言えるのかもしれない。

久々に良い日曜美術館だった。