象の夢を見たことはない -266ページ目

知識はいらない

子供のころ、

朝顔のふたばが出て、つるに巻きついていくありさまを見て、

なぜか植物の生々しさを気持ち悪く思った。まとわりつく白い夏の日。

体が小さくて、外界に対する抵抗力がなかったからだろうか。

生きるとはそういうことだ。

なにも年を重ねて経験を積むことだけがすべてではない。

そのときの感覚を思い出せることは、それはそれで魅力のあることだけれど。

『沼地のある森を抜けて』 梨木香歩

沼地のある森を抜けて

どうも苦手だ。混沌としている。感情とものとが密接にくっつきすぎていて、まさに「糠床」のように柔らかく腐敗している。
化学だったり生物だったりのものの考え方までが、感情で色づけされてぬかどこにぶち込まれて腐敗しはじめている。

     コスモス     ハチ     コスモス

現代美術は、言葉ではなく、ものによってものの見方を提示するものだ。

言葉で提示できないメタファー。自らのものの見方だったり、感情のフレームだったり。それを暗黙のなかから、かたちとして提示してくれる。自身の枠組みを組みなおすためのヒント。

ただ、それを見て、「ああ、そういうことか」とわかるのはまれで、結局、言葉で定義できないまま、いままで自分のなかにあったもやもやとしたカタマリが、その作品の印象に紐でくくられた形で、体のどこかに残る。

そしてそれはいつのまにか、特定の法則をもったものの見方として、体から出てくる。無意識のうちに。

実は、この沼地のある森を抜けて、まだ読みきれてはいない。が、最後まで読んだところで、どうもその沼地からは抜けられない。たぶん、梨木さんも抜けてはいない。作品自身が紐になるわけではないだろう。

たぶん、この作品の紐は、この本の題名、『沼地のある森を抜けて』。
本の題名だけでよい。わたしにとっては。それは、彼女の作品の多くに言える事なのかもしれない。ふと、そんなことを思った。

沼地のある森を抜けて (新潮文庫)/梨木 香歩

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百万円

百万あったら…。そう思える現実的な金額が百万円というところ?。。

やはり、そう思った人もいるようで、今回芥川賞を受賞した「ポトスライムの舟」と蒼井優主演の映画「百万円と苦虫女」。

構図がよく似ていると。現実からの脱却。そのための必要金額が百万円。

「ポトスライムの舟」は、まだ読んでいないが、29歳の女性が主人公で、ピースポートに乗るために、163万円を1年間かけて貯めようとする。だけれど、計算したら月に13万しかどうしても貯まらない。

村上龍がこの作品を芥川賞に推さなかったのは、派遣社員であるこの主人公が、自分が(製造の)ラインだったらよかったのにと思う、そんな人にもかかわらず、いろんな人とのコミュニケーションがうまいと。雇い主だったり、自分の友達とも案外ポジティブな環境を作っている。そこがひっかかったと。

そのあたり、苦虫女はその条件はクリアしている。
「百万円と苦虫女」。蒼井優演じる主人公は、携帯も持っていない。友達がいないから電話がかかってくることはないという理由で。ひょんなことから前科もちになってしまった彼女は、実家を離れ、敷金・礼金のため、100万円貯まったら、その土地を離れ各地を転々としながら生活するというそんなロードムービーである。

あまりステレオタイプ的な話をするのは、あれなんだけれど、今のアラサーの人たち、特にその世代の女の人のデタッチ感、自らのそのデタッチ感に対するあきらめと、でもコミットメントに対する憧れというのが、この二つの作品にはよく現れていると思う。

コミットすることに対する根源的な恐怖なのか嫌悪なのか。あるいは、漂っていたい感なのか。
それは、わっしの友達のこの世代の女のコたちに共通して見られる。
バブルが終わり、就職氷河期が始まり、しばらくたって、右肩あがりが幻想だという認識が定着した世代。

その世代のお金の単位のキーワードが百万円。というのは、なぜだか象徴的な気がする。

「ポトスライムの舟」は、主人公が派遣社員で、龍氏が言うには、「それを推していた選考委員の人も言っていたけど、この小説は決してポジティブな小説ではない。、希望を示しているわけではなく、シニカルな小説だと。でも、だからそういったのが今の現状を表している」と。こういう感想を平気で言うとは。。村上龍はもう終わった。彼はもう歳だ。

これに対して、幻冬社の編集の女のコは、「生きてることの不安定さを一番最初に、この29歳のナガセっていうのは感じていて、で自分が生きているっていう実感を得るために、とりあえず最初、体にタトゥを入れようとする」と。

まあ、この後は言うとおもしろくないので書かないが、実際のところ、彼女たちは、百万円のお金を貯めようとする過程だったり、次の生活場所確保のためにとりあえずの百万円を稼ごうという生活を通じて、生きるということにたいする実感覚、とくにこの世代の女の人が共通に心の中で感じている、実感覚での悟りのようなものを得る。

そんな希望が書かれているような、そんな本だったり映画だったりする。らしい。

そんなことはどーでもよい。実は、わっしが今いちばんひっかかっているのは、百万円でも、デタッチ感でもなく。。

今の自分のこういうステレオタイプなものの見方というのは、果たして、ありなのか、なしなのか。ということなのである。

向き合うこと

ゴルフはしたことないが、池とかバンカーを意識しすぎるとぜったいそっちのほうに行くか、真逆でOBとか。

なぜかもっとも行きたくないほうへ吸い寄せられる。あるいは、乱される。

仕事でも同じで、結局自分が解決できていない部分だったり、付き合いとかだったら、目の上のたんこぶと思っている人とか。

それを無視できるようになるということは、それはそれで解ではあるのだけれど、向き合わずに逃げても、結局そういうものは追いかけてくる。

これは無意識の成せる業で、ほんと人っていうのはうまく出来ているなあとそんなふうに思う。

新日曜美術館

新日曜美術館で『書』をとりあげることはほとんどないのだけれど。

今回のテーマは、三輪田米山。

見てたのだが、これは書であって書ではなく、むしろ絵であり画であると。

説教くさい書というのがあって、それは意識が小賢しい。うまく書こうとか、こうあらねばならないとか。
自らの自尊心というのが字にでてしまっている。

そうじゃない。

あそびのうちに、世界を捉える。

自らはこうやって遊んでいます。みんなちゃんと遊んでる?

北大路魯山人の書は、その作った陶器にしてもそうだが、「圭角が立っている」と言われる。

きらいな人はそこにイヤミを見るのだけれど、実際にはもっとおおらかなものを含んでいる。

彼の「人と為り」と同じだ。

彼が良寛に憧れたのは、結局ほんとうにおおらかな良寛になりきれない自分の業をおのずと知っていたからかも知れない。

米山の自由な書を見ていて、そんなことを思った。