こんばんは、合野愛佳(ごうのあいか)です。
今の世の中って、どこか「冷笑ブーム」みたいな空気が漂っている気がしませんか?
何か大きな夢を語ったり、何かに泥臭く本気で挑戦したりしている人を見かけては、一歩引いた冷めた目で見下ろしたり、「どうせ無理だよ」「意識高い(笑)」って鼻で笑う。
そんな「冷めている人がスマートでカッコいい」とされる空気感がありますよね。。
でも、ふと思うんです。他人の挑戦を冷笑して、安全な場所から石を投げているだけの生き方って、本当にそんなにかっこいいのかなって。
大人になると「現実を見なさい」と言われる場面も増えるし、間違いを正してくれる厳しい意見が必要なときもあります。成長するためのアドバイスなら、いくらだってありがたいです。
しかし、まだ形になっていない原石や、右も左も分からない状態から必死にもがいている人の姿を、面白半分に笑ったり、その人の歩んできたプロセスそのものを否定したりするのは、違うんじゃないかって思うんです。
最初から完璧にできる人なんて一人もいない。
知らないからこそ自ら物事を知ろうとし懸命に学び、失敗して、泥臭く進んでいく。
「失敗したら恥ずかしい」と、いったい誰が決めつけたんだろう?
私はこう思っています。
「失敗したり間違えるということは、それだけ勇気を出して何かに挑戦したということ。失敗できるという経験は幸せなことであって、決して恥ではない」 「失敗は、挑戦した人しか得られない幸運」
だと。
そして、こうも思うんです。
「挑戦しなければ、悔しさという感情すら経験できない。挑戦しないものには成功はないし、成功のチャンスを掴む資格すらない」と。
安全な場所から見ているだけの冷めた人たちには、この「失敗の価値」も、挑戦する痛みの尊さも、そして本気で悔しがる熱さも、きっと一生わからない。歴史に名を残すようなパイオニアたちも、みんなそうでした。
例えば、エジソン。電球を発明するまでに何度も失敗を重ねた彼は、こう言いました。
「失敗ではない。うまくいかない方法を1万通り発見したのだ」
彼の挑戦を、当時のまわりの人たちはどれほど冷笑したでしょう。でも彼は、冷たい視線や「無理だ」という声をすべて、自分の圧倒的な結果で黙らせてみせた。
冷笑的な空気の中で「やらない理由」を探すのは簡単だし、傷つかないで済むかもしれません。
でも、私はそんな「冷めた大人」の仲間入りは絶対にしたくない。
人生で最もダサいのは、失敗することなんかじゃない。他人の失敗や努力を見下してバカにすること。
スマートに斜に構えている人たちより、不格好でも、何度も転んで泥だらけになりながら「夢に向かって熱くなっている自分」のほうが、何倍も誇らしいし愛おしい。
だから、誰かに向けられた冷たい視線や、鼻で笑われた悔しさは、全部ぜんぶ最高のエネルギー(ガソリン)に変えてみせる。
冷笑の文化になんて屈しません。
失敗を恐れず、泥臭く進み続けるその先に、いつか圧倒的な結果と輝きを自分の手で掴み取って、あのとき冷めた目で見ていた人たちを驚かせてやるんだと、今日も私らしく熱く生きます。
おやすみなさい。