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るるる〜♪

つれづれなるままに。エッセイストの気分。

今日縄文人の土器を調べてたら

縄文人が宇宙人と暮らしていたと

主張する記事に行き当たった。




大きい眼鏡をしたような足の短い土偶の頭頂部に、

カパっと開くコクピットがあって、

中に人影らしきものが見えるから、

これはロボットだろうって。!?!

日本の特有のアニメ文化に巨大ロボットを

コクピットから操るものが多いのは、

縄文人の時代からの記憶があるからとのこと。

ガンダム、鉄人28など





そして、爬虫類型の宇宙人が下半身は

ロボットで歩いているものがあり、

意思で金属の形状を変えられる金属を使っていたと

推測するとあった。

意思で金属の形状を変えるとは、

misaさんのブログで、

先日読んだオリハルコンのような金属だろうか。





人間をつくり出すような絵の土器や、

壷から炎が出たような、

著者の推測によると、

エネルギーを作り出す装置もある。




私はこの壷を模したものが

弥生時代の銅鐸だったのでは?

と思いました。

銅鐸は今でも使い方がわかってないそうです。

結局宇宙人がいなくなたら、

使い方がわからなくなっちゃたんじゃないかな。

日本の昔、宇宙人、は近い存在だったのかもしれない。





http://www.globe.sh/guzzi/joumon01/joumon-1.htm
伊雑の宮に参拝した。

こちらの神社は、別宮ながらもおごそかな雰囲気がして、

石垣島のとなりの竹富島のオンという神社と同じ空気がした。





境内と本殿は静かさに徹していて、

少しだけ畏怖を感じさせる雰囲気さえある

何もない中に厳しさや可能性、未来があるような雰囲気だった。





神社には小さな木の片に伊雑宮と書かれた、

古風なお守りがあった。

袋なしの本体だけのお守りなのかもしれない。







神社の前の家が植栽を剪定していた。

その庭師が、とても丁寧に道路に落ちた葉を拾っている。

一枚おちてしまったのを拾う動作が、

まるで神社の神官と同じような丁寧さで驚いた。

道をきれいに保つことと、

神社をきれいに保つことと、

どちらも同じであると、

神に仕えることと、

日常を丁寧に生きることは同じであると、

その庭師からのメッセージであるかのように見えた。

神への信仰は日常の中から生まれるものかもしれない。

丁寧に生きていれば信仰深くなることもできる。

そんなことを思った。





美容院の椅子に座ってから、ダニに刺されるようになり、

今はすべての寝具と、洋服をコインランドリーで洗っている。






知恵袋でダニについて調べた結果、

かまないダニはどこにでもいる。

ほこりやカビや菌とおなじく空気中に舞っている。

だから全く0にすることは不可能。

あって当たり前。






かむニが出たら

バルサンをして、ダニの忌避剤を蒔いて、

布団に掃除機をかけ、

いつも部屋をきれいにしていること。

ほこりにダニがいると思って掃除するとよい、

小さなほこりや髪の毛もないように。

ちくっとかゆみを感じたら、忌避剤を洋服にスプレー。

アロマや置くタイプ、ペット用の首輪の忌避剤を

手に巻くのも効果的とあった。






ダニはかゆくなったらスプレーして、

手に巻くバンドの忌避剤やアロマなどで人間を遠巻きに

させておけばいい。

そこまで調べて少し楽になった。

かゆくなったら対処すればいいんだな。

この二週間テレビもみれないほどなにもできなかったけど。

やっとできるようになった。
正月にひさしぶりに父の実家に行った。

ずっと仕事や気後れやで行ってなかった。




父の実家は、祖母が生きていた時から集まるのが盛んで

父の兄弟が3人と

それぞれに子供が2~3人いるものだから、

20人ぐらいがわいわい集まってご馳走をだべる。

親がそれぞれの子供にお年玉をあげるだけでも大賑わいだった。






集まりでは、自分の勤務している仕事や、

政治や税金やそのほかいろいろなことについて、

自分が思っていることを、

○○はこうだけどひどいもんだね~と

男性同士でへりくつのこねくりあいが始まる。






男性が直面しているいかにも困ったことを、

今は世相がこうだからだね、みたいな話に持って行って、

盛り上げ、誰かが正論を言って終わりになる。

ああ、真面目だな~という正月風景なのだ。





奥さんはその話についていけないので、

また始まったと鼻をつまむのだが。

今年も、

なんのきっかけで始まったのかしらないけど、

三男のおじさんが話し始めた。







昔、自分が小学生高学年だったときだよ。

学校から帰ってきたら、

次男(父)が一人で食事してたんだけど、

なんと肉食ってたんだよ。

皿に一杯の四角い薄い肉ね。。

(このとき目ん玉むきだしの顔になる)

三男の驚きようをその顔で表現していたのだろう。



それでもね、俺はね、

ああ、次男が受験で体力をつけないといけないからだなと、

思って平然と普通に隣に座ったよ。

(俺には肉はなかったけどね)





それを聞いて、

戦後の貧しい時代に肉が珍しかったこと、

また受験ということに対して、

親がものすごく気を使っていたこと。

また、父は体が細いこともあり兄弟の中では、

案外ひいきの対象だったことをその時思った。

また食べ物の恨みはおそろしいというのに、

そのおそろしさをさらりとかわす三男もすごいけど。





父はそうやって何かにつけて親に大事にされていて、

それがプライドのようになった人だったのか、

とその時思った。






また、先日母が父のことを友人に話すときに、

うちの父はおぼっちゃんだから、と紹介するのを聞いた。

母がそんなふうに話すのを初めて聞いたが、

いままでは1mmたりともマイナスに言ったことはないのに。








ひいきにされていてもあたりまえの父。

そういう父だったのか。

私も40代になってはじめて

父の性格のいろいろな側面を見ることがある。

一緒に暮らしていても、

人間の姿というものは見えにくいものだからと思った。






年末に伊勢神宮参りに行って来た。

外宮にお参りに行って、

本殿と多賀の宮にお参りしたら何か行事があるらしく、

小さな箱を棒でみこしのように担いだ若い神官達が

私を抜かして坂を上って行った。

あらみたまの多賀の宮についたら、

先程の神官がおさい銭の箱をどかし、

和気あいあいとござを敷いていた。と

後で調べたら12月16日でお祭りの日でした。

月次祭[つきなみさい]

大御饌というのをするそうですが、

神様に今年実った米や作物を

お食事としてお供えしてお祭りする日だったようです。

時間が合わなかったので、見れなかったけど、

普段は見れないものを見れた日でした。






珍しく家族同士の付き合いがあり、

家族が集まった。

場所は東京日本橋、会社や小売り店がズラーっと並ぶ。

銀座よりもビジネスっぽい町並み。

明治屋のスーパーに入ると、オリジナルジャムを

売ってたり、老舗の洋食屋たいめいけんがあったり

少し商業を感じさせる。



そんな日本橋のレストラン。

こんな高い所で食べるのは初めて。

最初にワインの話になった。

正直父はワインを良く飲むので、

気が知れた友人なら、その話は盛り上がる話題だった。

ワインの味ってなかなかわからないですよね。

そう聞かれて、でしゃばらない人間の父に、

沈黙の間があった。

[自分の飲むワインの産地について話してもいいのだが、、]

[この話は自慢話にも聞こえちゃうな。。]

それで黙ってしまったので、

相手の方には意味が通じなかったかもしれない。

しかしそのとき一緒に白ワインを注文した私には、

父の気持ちがなんとなくわかった。

自慢話して場が盛り下がるのも悪いし、

という気持ちだったんだ。

その間が絶妙でした。

話題を選ぶって難しい。。





お開きになるまでに、ほかにも、

相手の家族の血筋にお姫様がいたなどの話も出て、

いろいろ話ができた食事会でした。





日本橋にはまた是非おしゃれして行きたいものだ。。
小さいころ家族旅行に車で行ったとき、

田舎の道にどこまでもどこまでも、どこまでも木々が続き、

自然がはてしなく続くことや、

その自然がどれも美しいこともその時知った、

多分8歳ぐらいのとき。

それで考えたんだけど、

こんなに美しいものが生まれるのに、またそれを継続するのに、

無機的にできるわけないと、おもったのです。

有機的ではなく、人為的でもなく、

神、精霊、木の精。。。などがそこに存在しているんだろうと。

そういった力が加わっているんだろうと。

それこそ八百万の神だと思います。






たとえばテレビのニュースでなんの前触れもなく、

特集でもなくひと言だけで言ってたけど、

一人の人間が存在するためには、質量学、物理学的には

八人の人間が支えている計算になるそうです。

つまり、深読みすると、私の存在を支える八人の守り手が

いるんだな、、。

さらに深読みすると、

私たちを地球や空気や風、水、空間、

それは精霊や、神が守っているからこそだとも言える。

テレビのニュースでそれを言ったので、学術的にも

そんな考えになるのだなあと思った。









八百と数を区切っているけど、

それは八百というわけではなく。

どれもこれも、どこもかしこもということだと思う。

だから、自然がきれいだなと思ったら、

流れゆく夕日の雲の一瞬後の形が違うこと、

夕日の雲がたなびいてピンクやオレンジに染まること。

それを見たら八百万の神を少しだけ思い出す。









八百万の神がいるというのは、

日本全体が持つ昔からの考え方だそうですが、

世界のほかの古い民族にもそういった考えが伝わるそうです。

日本のその考え方は、やがて世界に受け入れられ、

ものすごく今流行っているけん玉のように

自然神の存在を信じる心が広まればいいなと思う。

案外それが、

日本人の信心深さの素になっているのではないかと思う。

将来、日本がある考えで秀でていて、

そのことで世界を救うことになると言われていますが、

その考えって、このことかなって思うのですが、

どうでしょうね。。?



袖振り合うも多生の縁 と言いますが、

仕事場を見ると、

なんでこんなに仲がいいのか、行きも帰りも

いつも一緒に通勤して、くっついている人がいる。

二人はアラフォーの主婦だと思うが、

周りがほわ~っとなるぐらいに仲が良い、

二人でニコニコしている。

体型もほわ~っとしていてぬいぐるみみたい。

この人達は一緒にいるのを楽しむための縁に見える。




反対に、今日の帰りの電車で、

寝こけている70ぐらいのおじいさんに、

隣に座った60ぐらいのおばさんが、

「よくお休みになっていますが、

どちらで降りますの? 大丈夫ですか?」と声をかけていた。

おじいさんは、突然の隣席の人からの親切に

ガハハと照れてはにかんでいた。

1駅隣に座り、降りる時には

「お気をつけて」と声をかけていた。

こんなふうに声をかけるのも勇気がいるが、

こういうのがまさに 袖振り合うも多生の縁 。

でもそのおばさんも、誰にでも声をかける訳でもない。

なんか気のおけない、気になるおじいさんだったんだろう

隣のおじいさんに父親を見たのかもしれない。




どちらも縁ですが、

会って、話をしたい相手とお話する、

そのために出会っていると思う。

話をする、そのための縁。

多生の縁とは何回も転生して、

前回会ったゆかりのある人との縁という意味らしい。

着物の袖が触れて会話したり、

また別れたりするのも前世での縁があるから、という意味。

なんか仏教用語だったらしいです。







私は短期の派遣の仕事で、

もうすぐ終了する仕事をしているが、

男性が少ないオフィスに来て数ヶ月。

なんか面白い人がいるな~。

と袖を振り回して多生の縁を楽しんでいる。。
アミ小さな宇宙人、という本を読んだ時に、

今の地球人は、まだまだ愛が進化してない、

宇宙の法律は愛であるのに、とあった。




昔見た漫画や、本の未来人は確かに親切でなんでも

知っているイメージだ。

では、今よりももっと愛に近い世界とは?

私たちが、目の前の人に一歩近づいて、

人の心の機微に注意を払うのはいつのことだろう。

でもまだそんなには必要性が差し迫ってない。。 

日本人は世界の人の誰より、心をおもんぱかることが

得意だと思うが、日本人が率先して、もっと親切に

変わってゆくのだろうか。





しかし今でも、人が感謝を表したい時に、

みんなのおかげでと言うだろう、

また、つらい人には一人じゃないからねと言う

この一人じゃないからね、というのは、

その愛の世界に近づく感じがある。

一人じゃないとは、全体感があるように思うが、

もしかしたら、

宇宙からの俯瞰で地球を見た時、

生きているありがたさを感じるように、

今とはもう一つ上の価値を感じた時にそんな

愛にも目覚めるのかもしれない。







最後にびっくり話なのだが、

犬、猫のペットのヒーリングをしている人の話を、

どこかで読んだ。

人間は人間同士でテレパシーが使えないので、

人間界全体でのコミュニケーションが希薄だと

犬からのメッセージであったそうです。

人間は大変だねと言われたそうですが、

もしそんなことが知覚できるなら、

人間は進化するのもしれない。

この帰依するという言葉は仏教の専門用語と言いましたが、

実はどこにも帰依=魂があるべき光の場所に戻るとは書いていません。

帰依とは強く信じ、気持ちの上で頼ると辞書にはあります。

ではこの解釈がどこからきたかと言うと、

漢字単体として、(よるべく場所)に(帰る)と読め、

この単語を作った人は帰依とは、ひいては宗教とは

依るべき場所があるって

言っているのではないか?と思いました。







また、神託を受け取る巫女的役割の人がいるのですが、

ブログで命は死んだら元の星に帰るんだと、書いてあります。

人は生まれ変わるらしいです。

そして結局は戻るべき元いた場所に帰るらしいです。

だから、帰る先に自分の感じる光があっても

いいのではないか?と思います。

人は何かを信じながら生きる存在で、

信じる考えの体系でできた世界があり、

各人が、自分の光源を感じそこに戻るっていう

そんな世界観。

仏教がそのような解釈なら、

新しい解釈ができますね。

最新の巫女の発言と仏教の題目の共通点を見つけた!と

思いました。

無光量の光に帰依するとは、そんなイメージです。