「敵兵を救助せよ!
封印された日英友好の物語」
 


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 ☆ イギリス紳士の来日の目的とは 

 平成十五年(2003)十月に、
一人のイギリス紳士が、

生まれて初めて日本の土を踏みました。

八十四歳という高齢に加えて、心臓病を患っていました。

その紳士は、

サー・サムエル・フォールという

元軍人にして外交官です。

フォール卿の来日の目的は、ある日本人にお礼を言うためでした。

「死ぬ前に、どうしてもお礼を言いたい。この歳になっても、一度として彼のことを忘れたことはありません」。

このように、フォール卿は語っています。

彼とは日本の帝国海軍軍人の

工藤俊作のことです。

時は、昭和十七年(1942)三月一日

二十三歳のフォール少尉が乗るイギリス海軍駆逐艦

「エンカウンター」

はジャワ島北東部のスラバヤ沖で、日本海軍の猛攻撃により炎上沈没し、

乗組員は救命ボートで脱出しました。

 艦(ふね)から漏れた重油が目に入り、一時は、多くのイギリス兵の目が見えなくなってしまいました。

近くには別の巡洋艦の乗組員を含めて合わせて四百名以上が漂流していました。

八隻の救命ボートしかなく、漂流中のイギリス兵はボートにしがみつくのがやっとでした。

 やがて、日が暮れ、真っ暗な闇が、ジャワ海を漂うフォール少尉たちイギリス兵を覆いました。

「もう限界だ・・・・・・」

と口々に嘆くイギリス兵をフォール少尉は

「諦めては駄目だ、必ず助けは来る。生きて祖国に帰るんだ。家族を思い出せ」

と励まし続けました。

 夜が明けました。赤道に近いため、陽(ひ)が昇ると暑くなってきます。

漂流も二十時間近く経った頃、兵士の一人が、苦しさの余り、自殺のための劇薬を飲もうとしました。

フォール少尉は慌てて止めました。

 その時です。前方二百ヤード(約180メートル)のところに
艦(ふね)が現れました。

「見ろ、艦だ」

 イギリス兵たちはオールを振り上げて、

「おーい、助けてくれー!」

「ここだ!」

 と声を限りに叫び、助けを求めました。

 しかし、あろうことか、
それは敵国日本の艦でした。

駆逐艦の「雷(いかづち)」です。

この「雷」の艦長こそ工藤俊作少佐(当時)でした。

工藤は四十一歳で、身長百八十五センチ、体重九十キロの偉丈夫でした。

「雷」の艦上で望遠鏡を覗いていた見張りが、多くの浮遊物を見つけました。

「艦長、イギリス海軍です。四百名以上います」

 工藤艦長は艦橋から双眼鏡を覗き込みました。

ボートや浮遊物に掴まって必死に助けを求める四百名以上のイギリス海兵の姿が見えます。

しかし、スラバヤ沖の海域はいつ敵の潜水艦に襲われるかわからない危険水域です。

 もう一つ、危惧すべきことがありました。駆逐艦「雷」は小さな軍艦で、乗員も二百二十名です。

そこに四百名以上の、日本兵より屈強な敵兵を引き揚げると、艦内で蜂起(大勢がいっせいに騒動を起こすこと)する危険性がありました。

漂流中のフォール少尉たちイギリス兵は、現れた艦が日本の艦であることが知れたとき、死を覚悟しました。

工藤艦長は言いました。

「敵兵が多数漂流しているようだ。艦を停止して救助しよう」

その言葉に驚いた専任士官は艦長に進言した。

「艦長、ここは交戦海域の真ん中です。いつ敵潜水艦に雷撃されるとも限りません」

確かに士官の言うのも当然のことだった。

この海域には敵の潜水艦が多数入り込んでおり、数日前にも味方の輸送船が撃沈されているのである。

しかし、工藤艦長はかぶりを振ってもう一度念を押すように言った。

「今、放置すれば彼らは助からないだろう。

もう体力の限界にまで来ているはずだ。敵と言えどむざむざ犠牲にすることは出来ない。

艦を停止する!」

 工藤艦長か下した決断は

「敵兵を救助せよ」

でした。

「雷」のマストには“救難活動中”を示す国際信号が掲げられました。

この旗を見たフォール少尉は夢だと思いました。

 甲板から縄梯子が降ろされ、自力で上がれる者に日本兵の手が差しのべられました。

しかし、イギリス兵は上がってきません。

日本兵は

「お前たち、何で上がってこないんだ」

と大声で問い掛けました。

イギリス兵は“Handle first, Handle first! ”(病人を先に!)と応えました。

二十一時間も飲まず食わずの中を漂流してきたにもかかわらず、

イギリス軍の中には見事に秩序が生きていました。

敵味方、それぞれ差し出された手は、騎士道と武士道によって鍛えられたものでした。

 イギリス兵の衰弱は想像以上にひどく、大半が縄梯子さえ自力で上がれない状態です。

そこで工藤艦長はある決断をしました。

固定されたラッタル(大型階段)を降ろしたのです。

ラッタルは友軍の救助であっても使用してはいけないものでした。

さらに、警戒要員の大半を救助活動に振り向けました。

 ロープを握る力もない者には、竹竿を降ろして抱きつかせてボートに救助しようとしましたが、

イギリス兵は竹竿に触れるや安堵したのか、力尽きて海中に沈んでいきます。

その時、とっさに日本兵が海に飛び込み、

「ロープをくれ!」

といって、沈むイギリス兵の体にロープを巻き付けて引き揚げました。

 工藤艦長は目前のイギリス兵を救助し終わると、

「左前方に舵を取れ、漂流者を全員救助する」

と指示を出しました。

救助したイギリス兵は四百二十二名に上りました。

 フォール卿は、この工藤艦長の行為について、

「一人二人を救うことはあっても、全員を捜(さが)そうとはしないでしょう。

たとえ戦場でもフェアに戦う、

困っている人がいればそれが敵であっても全力で救う、

それが日本の誇り高き武士道であると認識したのです」

と述懐しています。

 日没後、甲板で支給された温かいミルクを飲み、

ビスケットを頬張っているイギリス兵のところに、浅野大尉がやってきて、

「士官のみ、前甲板に集合せよ」

と命じました。フォール少尉たちは不安に陥りました。

 前甲板に集合したフォール少尉たちの前に、艦橋から工藤艦長が降りてきて、端正な敬礼をし、流暢な英語で話し始めました。

“You have fought bravely. Now, you are the guests of the Imperial Japanese Navy.”

(諸官は勇敢に戦われた。

諸官は大日本帝国海軍の名誉あるゲストである)

 フォール少尉は終戦後、イギリスに帰国し、後にSir(サー:卿)の称号が与えられるほど有能な外交官となりました。

 一方、工藤艦長は、

「エンカウンター」乗員救助後の八月に、司令駆逐艦「響」の艦長に就任し、

しばらくして中佐に昇進しました。

しかし、その後は、体に変調をきたし、転地療養のために故郷の山形に転居し、敗戦を迎えました。

 さて、平成十五年のフォール卿は、工藤艦長の消息を掴むことができませんでした。

昭和十九年に「雷」は敵の攻撃を受けて撃沈され乗員は全員死亡するという事件があり、

工藤艦長はその衝撃からか、戦後、戦友と一切連絡を取らず、親戚の勤める病院の手伝いをして余生を過ごしていたのです。

そして昭和五十四年一月に七十七年の生涯を終えていました。

 実は、フォール卿の来日によって、スラバヤ沖の救出劇は、初めて日本人に知られることになったのです。

身内にさえ、工藤艦長は話していませんでした。

親戚の者は

「こんな立派なことをされたのか。生前は一切軍務のことは口外しなかった」

と涙ながらに語りました。

日本海軍軍人には“己(おのれ)を語らず”というモットーがあり、

日本海軍は“沈黙の海軍”
(サイレントネイビィー)とも言われています。

 スラバヤ沖での救出劇が世に知られて、工藤艦長の姪にあたる方が思い出したことがあります。

工藤元艦長がいつも持っていた鞄が、あまりにボロボロなため、

「なぜ新しいものに替えないの」

と訊(たず)ねますと、

「これは昔、イギリス兵からもらった大切なバッグなんだ」

と語ったそうです。

 その後、多くの人々の協力により工藤艦長の墓所がわかりました。

平成二十年に再来日したフォール卿は埼玉県川口市の薬林寺を訪れ、工藤艦長の墓前に献花し、

手を合わせました。

スラバヤ沖の海上に出会った二人は、六十七年の月日を超えて、幽明堺(ゆうめいさかい)を異にはしても、再会を果たしたのです。


 (惠隆之介著『海の武士道』より)





 

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