1910年4月15日。静かな海を切り裂くように進んでいた「第六潜水艇」は、呉湾沖で突然、制御不能に陥った。
新しい潜航訓練の最中だった。乗組員15名が乗り込み、その日もいつもと変わらぬ任務のはずだった。
だが、潜航後、艇は浮上しない。海面にはわずかな泡と油の跡だけが残った。
――そのとき、艇内では何が起きていたのか。
暗闇に包まれた艦内で、乗組員たちは冷静に持ち場についた。
酸素は刻一刻と薄くなり、計器の針がゆっくりと落ちていく。
それでも誰一人、指示を乱す者はいなかった。
逃げ場のない鉄の棺の中で、彼らは最後まで「任務中の兵士」であり続けたのだ。
そして艦長・佐久間勉。
彼は最後まで自席に腰を下ろし、震える手で記録を取り続けていた。
「この事故は、我々の技術の未熟によるものなり。部下に責任はない。すべての責任は、艦長たる私にある。」
その文字は、薄れゆく意識の中で、にじむように紙に刻まれていたという。
発見された遺書は、39ページにも及んだ。
そこには事故の経緯や潜水艇の構造的問題点だけでなく、仲間への感謝、遺族への思いやりの言葉が並んでいた。
「皆よく戦った。諸君の家族には、国がきっと報いてくれるだろう。」
それは死を目前にしてもなお、仲間と未来を想う言葉だった。
やがて第六潜水艇が引き上げられたとき、誰もが息をのんだ。
乗組員たちは脱出ハッチのそばではなく、それぞれの持ち場にいた。
操舵席、機関部、通信室——誰も逃げ出していなかった。
その姿は世界を震撼させた。
「日本の潜水艦士たちは、死の瞬間まで職務を全うした」と各国の新聞が報じた。
特にアメリカ海軍は深く感銘を受け、佐久間艇長の遺書を「士官の鑑」として士官学校の教材に採用。
原本は今も米国議会図書館に永久保存されている。
数年前、イタリア海軍の潜水艦事故では、乗組員がハッチの奪い合いをし、乱闘の跡まで残っていたと伝えられる。
それに比べ、第六潜水艇の乗組員たちの姿は、まさに奇跡的な冷静さと誇りに満ちていた。

※フェイスブックページ「忘れられた真実」より




 

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