2012年9月に開催されたロンドンパラリンピックで日本団体競技史上初となる金メダルに輝いたゴールボール女子日本代表。


 ※致知2012年12月号特集「大人の幸福論」より




 チームの副主将を務めた浦田理恵さんのお話をご紹介します。 私の場合は徐々に徐々に、じゃなくて、20歳の頃にガクンと来たんですね。左の目が急に見えなくなって、すぐに右の目、とスピードが早かった。 小学校の先生になるための専門学校に通っていた時で、卒業を間近に控えた3か月前の出来事でした。 これまでできていたことができなくなるのが本当に怖かったです。 1年半くらいは一人暮らしのアパートから出られず、両親にも友達にも打ち明けられないままでした。目が見えなくなってきたことが、最初は受け入れられませんでした。 もう本当に凄くきつくて、お先真っ暗で、見えないのなら何もできないし、できないんだったら別に自分がいる意味なんてないと考えたりもしました。 22歳のお正月の頃、もう自分ではどうにも抱えきれなくなって、このまま死んでしまうぐらいなら親に言おうと思ったんです。 その決心がようやくできて、福岡から久しぶりに熊本へ帰りました。 熊本へは電車で帰ったのですが、全く見えないわけではないので、こう行けばそこに改札があったなといった記憶も辿りながら、駅のホームに降りて、改札口のほうへ向かいました。 すると、すでに母が迎えに来てくれていたようで、 「はよこっちおいで。何、てれてれ歩きよると?」 と声がしました。 あぁ、お母さんや、と思って改札のほうへ向かったんですが、母の声はするんですけど、顔が全然見えなくって……。 その時に、あぁ、私、親の顔を見たのはいつやったかな、親の顔も見えなくなったんだということで、自分の目がもう見えなくなったことを凄く痛感させられた。 改札のほうへも、さっさとは歩けないので、ちょっとずつ歩いたのですが、母は私がふざけていると思ったそうです。 改札をやっと通り抜けて母の元へ行き、 「私……、お母さんの顔も見えんくなったんよね……」 と言ったら、母は 「ほーら、また冗談言って。これ何本?」 って指を出されたんですが、その数も全然分からなくて、母の手を触って確認しようとした。 その瞬間、母はもう本当に、改札の真ん前だったんですけど、ワーッとメチャクチャに泣き崩れて……。 それを見てる私も、自分は何をやってるんだろう、とやるせない気持ちになったんですが、でもこれまでずっと自分一人で抱えてきたものを伝えられたと、肩の荷がちょっと下りた気持ちでした。 それと、親がしばらくして 「何か自分ができることを探さんとね」と声を掛けてくれた。 その時に、あぁ自分がたとえどんな状態になっても親は絶対見捨てないでいてくれるなと実感できたんです。 それまでは家族の存在も、まるで空気のように当たり前に感じていたのですが、いてくれることのありがたさというのが初めて身に染みて感じられました。 そしてこれだけ応援してくれたり、励まして支えてくれる人がいるんだから、自分も何かをやらないと、とそれまで後ろ向きだった気持ちが、少しずつプラスに変化していきました。



リッドキララ