
作家の卵たちはよく、「アイデアはあるんですが、誰かがもう使ってしまったかもしれないと思うんです」と言います。そうですね。たぶんそのアイデアはもうどこかで作品になっているでしょう。ほとんどすべての創作上の試みは、すでに誰かによって手がつけられています。でも、あなたの手ではありません。シェイクスピアがその全生涯で書き上げた作品には、この世に存在するあらゆる種類の筋書きが使われているといいます。それなのに、以後5世紀にわたって、作家たちは同じ筋書きを何度も繰り返し使って作品を書いてきました(しかも、それらの多くはシェイクスピアの時代よりずっと前からお決まりの筋書きとして存在していたものばかり)。ピカソは、ラスコー洞窟の壁画を見てこう言ったそうです。「われわれ人間は、1万2000年ものあいだ、何ひとつ学ばずにきてしまった」。そう。きっと、その通りなのです。でも、だから何だというのでしょう?(中略)私は年を経るごとに、「オリジナルなもの」には心を動かされなくなってきました。最近では、「本物であること」のほうにはるかにつよく感動します。オリジナルであることを打ち出そうとすると、表面的で気取った感じになりやすいもの。しかし本物の作品の静かな余韻は、いつでも感激をもたらしてくれるのです。あなたのほんとうの気持ちだけを、真心を込めて表現してください。どうしても分かち合いたい気持ちは、分かち合えばよいのです。本物であるものは、それだけでオリジナリティを感じさせるものです。
「夢中になる」ことからはじめよう。エリザベス・ギルバート 著神奈川夏子 訳ディスカヴァー_______

ある時、ピカソさんが食事をしていると、ファンの女性にレストランのナプキンを差し出され、「お礼はちゃんとするから何か描いて」と頼まれました。ピカソさんは、サッと絵を描き上げ、女性に1万ドルを請求しました。すると女性は、「描くのに30秒もかかっていないのに、そんなに高いの!?」とびっくりして言いました。それに対してピカソさんは、「いや、40年と30秒だよ」
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この絵を30秒で描けるようになるのに、それだけの「努力した時間」を費やしているということです。こんなお話もあります。ピカソさんがまだ若かったころ、友人画家の構図などを参考にして、画家としての素養を磨いていったそうです。悪く言えば盗んだということで、「ピカソが来ると自分の作品を盗まれるからかなわない」と言って、画家たちは作品を隠してしまったそうです。オリジナリティの塊りのように見えるピカソさんでさえ、最初は真似る、見倣うというところから出発したのです。オリジナル感を出そうと奇をてらうより、本物を目指して真っすぐ努力を重ねていきたいものです。その先に、オリジナルといわれる域があるのでしょうね。
※魂が震える話より


