『キンモクセイの頃』
志賀内泰弘 


【アクティビティジャパン】遊び・体験・レジャーの予約サイト

 

 柏木百合子は、キンモクセイが咲く頃になると憂鬱になった。
いや、憂鬱なんてものじゃない。気分が悪くなり、寝込むほど身体が重くなる。
それは、ズバリ、キンモクセイにまつわる悪い思い出がそうさせるのだった。

小学5年生の、その日の、その時間までは、
百合子もキンモクセイが好きだった。

友達の家に遊びに行く途中で、どこからともなく「いい匂い」がした。
その匂いが、どこからするのか、キョロキョロしながら探す。

何かの花の香りに違いないと思った。
家々の花壇を覗いてみるが、それらしき花は咲いていない。

塾の帰り道にも、同じ「いい匂い」に立ち止まった。
暗闇の中を、どこからともなく流れてくる。

翌日、百合子の家の、すぐ裏にある設計事務所の前を通ったとき、
その匂いの元に気付いた。なんだか、暗くて陰気な樹に、
オレンジ色の小さな粒々の花が付いていた。
それが、キンモクセイだった。

「ええ! こんなところに、こんにいい匂いの花があったなんて」

百合子はたちまち、キンモクセイの匂いのファンになった。
翌朝には、通学路にある神社の裏手に、大きなキンモクセイの樹を見つけた。
普通、住宅街の生け垣で見られるキンモクセイは、大人の背丈くらいの大きさのものが多い。

ところが、その神社のキンモクセイは、5メートルほどの高さがあり、こんもりと茂っていた。
そばに、「市指定保存樹木」という標識が立ててあった。

百合子は、学校へ行く道すがら、大木の下でキンモクセイの匂いを楽しんだ。
ふわ~として、何だか夢心地になる。ずっと匂いを嗅いでいたかった。

「いけない! 遅刻する!」

後ろ髪を引かれる思いで、学校へ向かった。

教室に入って、席につくなり、後ろの席のカズヤが急に声を上げた。

「あれ~なんか臭い」

カズヤといつも一緒に遊んでいる、二人の男の子も、

「ああ、ホントだ、くせえ~」
「臭い臭い」

三人は、その匂いがどこから来るのか、鼻をクンクンさせながら嗅ぎまわった。
百合子が振り向くと、カズヤと目が合った。

「ああ、ここからするぜ」

そう言って、百合子のそばまで近寄ってきた。
三人は、百合子を取り囲むようにしてクンクンする。

「あれ~コイツから匂いがするぜ」
「ホントだ」

わざとらしく、みんなに聴こえるように大声で言う。

「これってさ、トイレの匂いだ」
「ホントだ、トイレだトイレだ!」

そうはやし立てる。
キンモクセイの大木の下に長くいたせいで、身体に匂いがまとわりついていたらしい。
いや、ひょっとすると、花粉が服に付いていたのかもしれない。

その声に引かれて、他の男の子たちもやってきた。面白がってクンクンする。
百合子は、何も言うことができず下を向いて泣き出してしまった。
それに気付いた、一番の仲良しの優華が男の子たちの垣根の中へ割って入ってきた。

「あんたたち、バッカじゃないの!
 これ、キンモクセイの匂いじゃないの。いい匂いじゃない」
「でも、これトイレの匂いじゃん」

それは、後になって知ったことだった。キンモクセイの香りは、
よくトイレの芳香剤に使われることを。

その日から、百合子のあだ名は、「キンちゃん」になった。
キンモクセイの「キン」。さらに、「金も臭せ~」などと、ふざけてヒドイことを言う男子もいた。
そして、その瞬間から百合子は、キンモクセイが大嫌いになった。

百合子が商業高校を卒業して就職したのは、地元の食品卸会社だった。
百合子は、何かずば抜けた特技があるわけではなく、ただ真面目なだけが取り柄だった。

先生もそれをよく知っていて、経理の仕事を募集していたその会社に強く推薦してくれた。
百合子は、普段から地味な服を着て、すすんで誰とも喋ることはなかった。

それは、元々の性格とは違っていた。
あの日、キンモクセイの匂いをクラスの男の子にからかられて以来、
じっと目立たないようにと努めてきたのだ。

中学も高校も、ずっと地元の町で暮らした。ほとんど、顔なじみの人たちばかりだ。
中学に上がっても「キンちゃん」と呼ばれたときには、吐き気がした。

言う側は何も気にしていないらしい。笑顔で声をかけてくる。
しかし、百合子にはそれが耐えられなかった。
さすがに、高校生になって「キンちゃん」などと言う友達は一人もいなくなった。

しかし、百合子はみんなの前では、とにかく、おとなしく目立たないようにと、
息を殺して過ごしていた。それは、会社に入っても続いた。

就職して半年が過ぎた。

ようやく、経理課の仕事にも慣れ、心にもゆとりが出て来たある日のことだった。
湯沸し室で、お客様に出すお茶を入れていると、商品企画部の男の人が入って来た。

「あ~あ、のどが渇いた。僕にも一杯くれないかな」

突然のことで驚いた。その先輩は、社長の甥か何か親戚らしいと聞いていた。
社長と同じ苗字の「伊藤」という名前であることを知っていた。
(背が高くて、ちょっとカッコイイなぁ)と思っていたから、
なおさら声を掛けられてびっくりしたのだ。

「あ、はい・・・」

「ありがとう」

伊藤は、湯沸し室で、百合子が入れたお茶を立ったまますすった。

「柏木さんはさあ、キンモクセイみたいだよね」

突然、そう言われて、百合子は身体が強張ってしまった。

「え!?」

百合子は、「まさか」と思った。
この人は、私が昔、「キンちゃん」と呼ばれていたことを知っているのではないか。
それは十分にありうる話だった。けっして大きな町ではない。

伊藤が、学校の部活か何かの後輩から、
百合子の小学生のときのことを耳にしたとしても不思議ではなかった。

伊藤は、百合子のそんな胸のうちを知って知らずか、勝手に話を続けた。

「今度ね、妹が大学の推薦入試を受けるっていうんでね、
 日曜日に神社にお守りを受けに出掛けたんだよ。
 そうしたらさー、ものすごくいい匂いがするんでびっくりしてね。
 とてつもない、大きなキンモクセイがあってさ。
 もう、その樹からプンプンと匂うの何のって。
 なんだか酔っぱらうくらいにさ」
「・・・」
「柏木さんも見てくるといいよ。ニの宮神社の裏手にあるんだ」

百合子は、蚊の鳴くような声で答えた。

「知ってます・・・」
「え! 知ってるんだ。へえ~」

伊藤は、ただそれだけのことを、たいそう喜んでいるようだった。

「すみません、お客様にお茶をお出ししなくちゃいけないので、
 そこを通していただけますか」
「あっ、ごめん、ごめん」

百合子は、逃げ出すようにして湯沸し室を飛び出した。
慌てていたので、少し、お茶がこぼれてしまった。

応接室を出て、お盆を返しに湯沸し室へ戻ると・・・そこにはまだ、伊藤がいた。

「さっきは、ごめん・・・何か僕、悪いこと言ったかな」
「いいえ・・・別に」
「だって、君・・・怒ってたから」

百合子は、いつもなら出さないような強い口調で言った。

「怒ってません!」

と、同時に、なぜだか涙がにじんでくるのがわかった。

「ちょっと、待ってよ、柏木さん。何か、僕が悪いこと言ったなら謝るよ」
「いいんです・・・伊藤さんが悪いわけじゃないですから」
「本当?」
「ホントです」
「じゃあ、二の宮神社に何か悪い思い出でもあるのかな?」

百合子は、もうこんな話はやめて欲しいと思った。
そんな百合子の気も知らず、伊藤は話をさらに続けた。

「キンモクセイってさ、スゴイと思うんだよね」
「・・・」
「今時分になると、咲き出すじゃない。ものすごくいい香りを漂わせてさ。
 まるで、街中がキンモクセイの匂いに包まれるくらいの勢いでさ。
 それなのにだよ。普段は、そこにキンモクセイの樹があることなんて全く気が付かないんだ。
 二の宮神社に、あんなに大きなキンモクセイの樹があるなんて、
 昨日まで知らなかったもんなぁ。それを知ってたんだよね、柏木さんは・・・」
「・・・」

百合子は、ますます暗い気持ちになった。
早く伊藤が仕事に戻ってくれることを心の中で祈った。

「それでさ~、このところ次々に発見したんだよね、キンモクセイを。
 会社の敷地の中にもさ、キンモクセイがあるんだよね、知ってる? 
 駐車場の脇の焼却炉のところ。それからさ、町役場の入口にも、僕の家の隣の庭にも。
 そんなにあちこちにあるのにさ、普段はその存在に気が付かないんだ。
 なんて言うか・・・地味というか、目立たないというか。
 葉っぱの色なんか、黒に近いような緑だもんな。
 それでさ・・・思ったんだよ、柏木さんはさ、キンモクセイみたいだなぁって」
「え?」

百合子は、胸がドキドキし始めた。この人はいったい何を・・・。

「知ってるよ、柏木さんがさ、いつも人より早く会社に来てさ、玄関周りとか、
 経理の部屋とかを一人で掃除をしてるの。さっきのお茶だってさ、
 他に女の子が何人もいるのにさ、いつも柏木さんが一人で入れてるじゃない」
「・・・だって、私、新人だし」
「何、言ってんだよ。柏木さんが入ってくるまでは、
 女の子全員が交代でお茶を入れてたんだぜ。
 ・・・まあ、いいや、そんこと。だからさ・・・なんて言うかさ・・・」
「・・・」

百合子は、無言のまま伊藤を見上げた。
伊藤は、頭を右手でかきながら言った。

「目立たないけど、キラッて光ってる。よく見ないとわからない。
 ひょっとすると、普段から気づいている人は少ない。
 そんな、キンモクセイみたいな柏木さんがいいなぁ~なんて思ってさ・・・」
「え!?」
「仕事が終わったらさ、晩飯一緒に行かないかな」

それは、百合子が、再びキンモクセイが好きになった瞬間だった。


 《終わり》 


リッドキララ

 

🔵 金木犀の花は甘めでしっかりした強い香りであることから、日本において汲み取り式トイレが主流で悪臭を発するものが多かった時期には、その近くに植えられることもあった。その要因から香りがトイレの芳香剤として1970年代初頭から1990年代前半まで主流で利用されていたため、一部年齢層においてはトイレを連想させることがある。
古代中国では桂花(けいか)と呼びそのかぐわしき香りからこの地上のものではなく月の世界からやってきたと考えられていたそうな。さてこの花を白ワインに漬けてさらに3年ほど寝かせる・・・・楊貴妃の愛したお酒・・・・桂花陳酒(けいかちんしゅ)のできあがり、当時は宮廷の秘酒、その製法は千年以上も公の前に出されることはなかったと言う・・・美容と健康のために楊貴妃の命により作られたお酒月の国の花といわれる桂花この花の香りとともにこの上なく美しき月をながめこの美酒に酔いたいものです。



Fibee 9種のスターターセット