正月の風物詩として、日本中を熱狂の渦に巻き込む箱根駅伝。

しかし、この国民的行事の生みの親が、オリンピックの舞台から忽然と姿を消し、「世界で最も遅いマラソン記録」を持つ男だったことを知る人は少ない。彼の名は、金栗四三。これは、一人のランナーの挫折と栄光、そして半世紀以上の時を超えて完結した、奇跡の物語である。1912年、スウェーデン・ストックホルム。日本が初めて参加したオリンピックの舞台に、金栗四三は立っていた。前年の国内予選会で、当時の世界記録を27分も更新する驚異的なタイムを叩き出し、国民の期待を一身に背負っての出場だった。しかし、彼を待っていたのは過酷すぎる運命だった。シベリア鉄道を乗り継ぐ20日以上の長旅、慣れない食事と白夜による睡眠不足。そしてレース当日、迎えの車が来ないという不運に見舞われ、競技場まで自ら走る羽目に。心身ともに疲弊しきった状態でスタートしたレースは、北欧とは思えぬ40度の猛暑に見舞われた。そして、レースの途中で日射病により意識を失い、コース脇に倒れ込んでしまう。彼が近くの農家で目を覚ましたのは、翌朝のこと。競技はとっくに終わっていた。棄権の届け出もせず、失意のまま静かに帰国した金栗は、いつしか「レース中に消えた日本人」として世界に知られることとなる。しかし、金栗の情熱の炎は消えていなかった。彼は「世界に通用するランナーを日本から育てたい」という強い想いを胸に、新たな挑戦を始める。その第一歩が、1917年の「東海道駅伝徒歩競争」だった。京都から東京までの508kmを走破するこの日本初の駅伝で、金栗は見事トップでゴール。この大会の大成功が、彼の夢を大きく後押しした。そして1920年、彼の呼びかけにより、早稲田、慶応など4校が参加する第1回箱根駅伝が開催されたのである。時は流れ、1967年。金栗が75歳になったある日、スウェーデンのオリンピック委員会から一通の招待状が届く。ストックホルムオリンピック55周年記念式典への招待だった。記録を整理していたところ、金栗の棄権届が出ておらず、公式記録上は「競技続行中」であることが判明したのだ。「レースを完結させてほしい」。その粋な計らいに、金栗は再びストックホルムの地を踏む。55年の時を経て、スーツ姿で競技場のトラックをゆっくりと走り、万雷の拍手の中、ついにゴールテープを切った。会場に響き渡ったアナウンスは、彼の人生そのものを物語っていた。「日本の金栗、ただいまゴールイン!タイム、54年と8ヶ月と6日と5時間32分20秒379。これをもって、第5回ストックホルムオリンピック大会の全日程を終了します!」オリンピック史上最も長い時間をかけてゴールした男。彼が残した箱根駅伝という偉大な遺産は、今もなお、日本中の人々に夢と感動を与え続けている。
※よろぴくみん(フェイスブック)より


