志賀内泰弘さんのメルマガより

私の父は、78歳で他界しました。気が弱く、酒の力を借りないと何も言えない男でした。酒とギャンブルに溺れて、いつも母に暴力をふるっていました。私は子供の頃からそんな父が大嫌いでした。父は腕のいい板前でしたが、一か所に落ち着かず全国の旅館や料亭を転々としていました。そんな暮らしを送っている時、叔父が、「いつまでもそんな生活をしていたら、妻や子供が、かわいそうだ」と言い、板前を辞めさせて地方公務員の職を見つけてくれました。公務員といっても、仕事は養護施設孤児院の給食係でした。板前職人の父にとっては屈辱だったのでしょう。そのころから酒とギャンブルに溺れるようになったのです。休日は朝から浴びるように酒を飲み、仕事の愚痴を溢してばかりいました。私が小学生から社会人になる頃までそんな生活が続き、案の定、肝臓を悪くして入退院を繰り返して78歳で他界しました。

私は、父の葬儀で涙を流しませんでした。葬儀の終わり頃になって、30歳代ぐらいの男女12~13人が泣きながら焼香をしているのに気づきました。初めてお会いする人たちなので、父との関係が全く解りません。どうしても気になって仕方なかったので、出棺のときに、リーダーらしき青年に父との関係を聞きにいきました。すると、青年はゆっくり語ってくれました。彼らは父が勤めていた孤児院で育った仲間だったのです。「食べるものや着るものは、 全国の人たちからいただいたので何の不自由もありませんでした。 一つだけ辛かったのは、学校にお弁当を持っていく時でした。 いつも友達から離れたところで食べました。 私たちのお弁当は、パンとミルクに決まっていたからです。 友達はみんな、母親の手づくり弁当を楽しそうに食べていました。 だから、私たちはお弁当の日が一番悲しい日でした。 梶山のおじさんが来てくれてから、お弁当が変わりました。 どこの母親にも負けないぐらい綺麗で美味しい手づくり弁当を持たせてくれました。 その日から遠足やお弁当の日が待ち遠しくなり、 友達に自慢げに見せながら、梶山のおじさんのお弁当をいただきました。 あの時のお弁当の味を、20年経った今も忘れることはありません」その話を聞いたとたん、涙か溢れて止まらなくなりました。あんなに大嫌いだった父親の姿がさっと消えて、小さい頃に一緒に遊んでくれた、笑っている父が走馬灯のように浮かんできました。
それまで知らなかった父を知った喜びと、父を嫌って殆ど話さなかったことが無性に悔しく、大粒の涙になって溢れ出しました。


