今日10月22日は「平安遷都の日」だそうです。


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 なぜかというと、794(延暦13)年10月22日に桓武天皇が長岡京から山背国葛野郡宇太村の新京に移ったことが由来となっています。
桓武天皇が新京に移った時点ではまだ「平安京」と命名されてなく、その年の11月8日に「平安京」と命名されました。
平安遷都1100年を記念して1895(明治28)年に創建された平安神宮の例祭・時代祭については毎年10月22日に行われています。
時代祭は同じ京都の葵祭や祇園祭に比べると歴史は浅いものの、京都三大祭りの一つとして数えられています。
この日には京都市民が主体となって市民を上げて祭りを開催しています。
歴史の授業で「~~時代」というものを学びましたが、その中でも平安時代は約400年にも渡って続いていました。
江戸時代もかなり長いイメージがありますが、実際は300年も続いていないため、平安時代がいかに長かったかがわかります。
貴族が権力を持っていた時代からやがて武士の時代へと移り変わっていくのも平安時代ですし、日本の転換期となった時代の一つです。 


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 【平安時代の雑学】

 ※平安時代の女性は髪が長いほど美人とされていた 


 平安時代の女性といえば紫式部や清少納言をイメージする人も多いのではないでしょうか。
紫式部や清少納言の肖像画の特徴として髪の毛がかなり長く描かれてます。
なぜ平安時代の女性がここまで髪の毛を長くしていたのかというと、平安時代の女性は髪の毛が長ければ長いほど美人とされていました。
髪の毛が数メートルあるのは当たり前という時代で、その長い髪の毛を維持するために椿油などをぬって髪の毛の手入れをしていたそうです。
髪の毛が長いとどうして美人だとされていたのかというと、平安時代の女性は顔に白粉を塗って白くしていたため、その白い顔を美しく際立てるためだったそうです。
実は平安時代からかつらというものは存在していたそうで、髪の毛が薄いことに悩む女性やより髪の毛を長くして美人にしたい女性はかつらをかぶることもあったそうです。
髪は女の命と言われていますが、この文化は平安時代からあったんですね。


 ※実は平安時代は優雅なイメージとはかけ離れている 


 平安時代といえば公家が宮中で詩を詠んだり、蹴鞠などをして優雅に過ごしていたイメージがあります。
しかし、実はこのような遊びに興じていられたのは公家などの貴族の本の一部の人だけであり、それ以外の人たちは極貧生活を送っていました。
歴史の教科書にはあまり書かれていませんが、実は平安時代には何回も飢饉に襲われていてその度に大量の餓死者を出しています。
そして、貴族が都を歩くときはたくさんの物乞いが寄ってきたそうですが、自分のことしか考えていない貴族は特に何の対策もとろうとはしませんでした。
農村はもちろんのこと、都内ですら餓死者を出すような状況で、人間の死骸もそのまま放置されていたことから野犬がたかるようになり、とにかく優雅なイメージとはかけ離れた悲惨な時代だったのです。