『女優として、母として、人間として』

オードリー・ヘップバーンがこの世を去って約30年(当時)。

『ローマの休日』(1953)や『ティファニーで朝食を』(1961)をはじめとする名作を残し、永遠の女優として今なお私たちの心に生き続けている彼女。

少女時代に戦争に巻き込まれてバレリーナになる夢を断たれても、挫折を受け入れて進んだ演劇の世界でチャンスをつかんだ彼女は、『ローマの休日』でその才能を開花させ、アカデミー賞主演女優賞に輝いた。

1954年に俳優メル・ファーラーと結婚し、1960年には待望の第1子となるショーンが誕生する。
子供が幼いころは母の仕事に同行していたが、学校に通う年頃になると彼女はすっぱりと仕事を捨てて、子育てに専念する。
他の母親たちと同じように学校の送り迎えをし、一緒に買い物に出かけ、宿題を手伝い、料理の腕を振るった。
一家は農場に住み、普通の価値観の中で暮らすようになる。
キャリアより子育てを優先したのだ。
息子のショーンは、母が自分に与えてくれた最高の贈り物の一つが普通の暮らしだったと言う。
今のハリウッドを見ていると、この「普通」というのがどれだけ大事なことだったか、母の決断が勇気のあるものだったのかを改めて感じずにはいられない。
彼の生活の中にはセレブ的なカルチャーは一切なく、ハリウッド的な生活とはまったく無縁だった。
母親が大スターだという感覚はなく、本当のスターだったと実感したのは、彼女がこの世を去ってからだという。
オードリーは強さと優しさの両方を持ち合わせた人。
ショーンの妻は、母を「衣の下から鎧が見える(優しそうに見えるけど実は厳しい人でもある)」と例えたほどで、母親のオードリーは、自分が信じた人のためなら容易に立ち上がる人だったと語った。
オフの時間は飾らない普段着姿で街に買い物に出かけ、平凡な暮らしを愛した彼女。

やがて自らの名声をチャリティに活かす道を選ぶ。
オードリーは1988年から亡くなるまでの約5年間、ユニセフの親善大使を務め、内戦と干ばつでひどい飢饉に見舞われていたエチオピアを訪問した。

その間にユニセフの規模は倍になり5年間で最大成長を遂げた組織となった。
寄付も同比率で増えた。
もちろん影響力が大きかった分、多忙でもあった。
それでも彼女は一度も不平不満を言わなかった。
私たち家族が「忙しい人生を送って来たから、庭のバラの香りを楽しみながらゆっくりしたほうがいい」と言うと、母は決まって「分かっているわ。
でも今回はとても大切な旅なの。
来年は必ずゆっくりするから」と答えていた。
その報酬は、わずか年間1ドルだったという。
苦しい思いをしているアフリカの子どもたちのために立ち上がることも、母にとっては当然のことでした。

1992年、アメリカで最高の栄誉である大統領自由勲章を授与されたオードリー。
それは長年続けてきたユニセフ(国際連合児童基金)への貢献を称えてのものだった。
1950年代からユニセフのラジオ番組でナレーターを務めるなど、チャリティ活動に熱心だった彼女は晩年の数年間、子どもたちのための活動に献身した。
「歳を重ねると、自分に手が2つあることを知るはず。1つは自分自身を助けるため、もう1つは他者を助けるために」

これはオードリー本人の言葉ではなく、彼女が愛した詩のサム・レヴェンソンの「Time Tested Beauty Tips」に含まれるもので、彼女は生涯最後のクリスマスに2人の息子へこの詩を読み聞かせたという。
この一節は晩年のオードリーの生き方をそのまま表すようだ。
1993年にこの世を去るまで、彼女はトルコ、ベネズエラやホンジュラスなど中南米諸国、ベトナムなどを50回以上訪問。
飢餓に苦しむ難民の窮状や劣悪な環境に暮らす子どもたちのための予防接種の普及、水道設備設置など、人道支援の重要性を世界に訴えた。
1992年9月、オードリーはソマリア訪問から帰国後、体調不良に悩まされ、渡米して検査を受けたところ悪性腫瘍が発見された。
すでに虫垂などに転移もあり、治療の甲斐なく、わずか数カ月後の1993年1月20日に63歳でスイスの自宅で息を引き取った。
オードリーの座右の銘とも言うべきレヴェンソンの詩は、彼女の葬儀で長男ショーンが朗読した。
没後は、息子たちがオードリー・ヘップバーン子ども基金(AHCF)を設立し、彼女の遺志を引き継いだ活動を続けている。
「女優として、母として、人間として」生きたオードリー・ヘップバーン。
私はこれからも彼女のことを忘れることはないだろう。
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