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 俳聖、松尾芭蕉の、「無能、無才にしてこの一筋につながる」は有名な言葉であるが、この“無能、無才”は自嘲であろうか?


 とんでもない。 


 むしろ、俳諧という“一筋”には「ひそかな自信」があるのであり、これと比べたら他の分野には…という、謙遜の辞にすぎまい。 


 俳句ほど打ち込んでいないから、俳句ほどの自信はない、という意味のものかと思われる。


 「アレができる、コレもできる」と得手(えて)を数多く並べ立てる人よりは、むしろ、より「できる」のかもしれないのである。 


 西郷隆盛はまだ10代のときに、「自分はいかなる才能もない」と自覚したそうだ。 


 といって、「おれは何をやってもダメだ」と、絶望したのではないようである。 


 劣等感にとりつかれたわけではないのだ。 


 劣等感の本質は、自分が劣っていることに反発し、これを承知できない、と力むところにあるが、西郷のばあいは、客観的精神でもってこれを認め、肯定しているのである。 


 「それでよし」としているのだ。 


 また、かれのいった才能とは、技術的な分野の才能という意味のようである。 


 「だから」と、かれの自覚はつづく、 「こういう自分のなすべき仕事とは、才能をもった人たちの才が活きるように、かれらに仕え、また、かれらを動かすことのほかにない」と。 


 ひろい意味での“政治”が自分の任であると、自覚したわけであろう。


 かれにおいて、“無才”を自覚した謙虚と、政治という“一筋”にかけた「ひそかな自信」とは、一体のものであったはずである。 


 「私(わたくし)がない」という共通項で、この両者は合致しているのである。 


 かれが政治にかけた使命感は、おそらくはかれ自身の予期よりも、はるかに大きく花咲いた。 


 幕末維新の大変革期の中心人物の一人となって、天下国家を根底から動かしたからである。 


 これだけの大仕事をしておきながら、しかもかれは、 「人間一人が一生にやれることなど、タカが知れている」 と、いつも口にしていたそうだ。 


 自分がなした業績など、歯牙にもかけていないというふうであった。 


 「大きい人間とは、これだ!」 と勝海舟が、この言をとらえて激賞している。 


 「功名をなそうという者には、功名はけっしてできないものだ」と注を加えて…。



 ※【人の心に灯をともす】より❗ 

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 自分のことを才能がないと心の底から言い切ることの出来る人は、大物だ。 


 それは、自信があるから言えること。 


 だが、小物は大きなことを言ったり、自慢したりして、自分を少しでも大きくみせようとする。 


 自信がないからだ。 


 その西郷が、江戸無血開城の立役者、幕臣、山岡鉄舟をさしてこう言った。 


 「命もいらず、名もいらず、官位も金もいらぬ人は、始末に困るものなり。 この始末に困る人ならでは、艱難(かんなん)を共にして国家の大業は成し得られぬなり」 


 私利私欲なく、公に殉ずる覚悟のできている人は始末に困る。 


 ありのままの自分をさらけ出してもなお、魅力ある人でありたい。


 ※出典:櫻木健古著『人間における自信の探求』ぱるす出版



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