今日の歴史の一幕
「一枚の写真」
1945年9月27日午前9時50分、昭和天皇を乗せた車が、アメリカ大使館公邸に向かって皇居を出発した。
シルクハット、モーニングで正装した昭和天皇の表情は、同行した通訳によれば「非常に厳しいお顔だった」と回想している。
午前10時、車はマッカーサーの待つアメリカ大使公邸の門をくぐった。
大使公邸の玄関にはマッカーサーの姿はなく、出迎えたのは2人の副官だけだった。
マッカーサーはこの時、出迎えも見送りもしないと決めていた。
昭和天皇は、同行した大臣などと次の間で別れ、通訳と二人だけで奥の部屋に向かった。
10時5分過ぎ、レセプションルームで出迎えたマッカーサーは、昭和天皇を部屋の奥へと案内した。
写真撮影が行われた。
そのあと、2人の会見が始まった。
マッカーサーは、回想記にこの日の模様を記している。
マッカーサーは、会見を前に、昭和天皇に関するあらゆる情報を集めるよう、部下に指示していた。
秘書官は、「我々は昭和天皇について、徹底的に調べました。
例えば、彼は海洋生物学の権威でした。
昭和天皇がタバコ好きなことも知りました。
そこで、マッカーサー元帥は、タバコを持っていくことにしました。
こうして、元帥は、昭和天皇についての十分な知識を持って臨むことができたのです」。
「タバコに火をつけて差し上げたとき、私は天皇の手が震えているのに気がついた。
天皇の語った言葉は、次のようなものだった」。
天皇は「私は、国民が戦争遂行するにあたって、政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」。
「私は、この瞬間、私の前にいる天皇が、日本の最上の紳士であることを感じとったのである」。
35分にわたった会見が終わった時、マッカーサーの昭和天皇に対する態度は変わっていた。
マッカーサーは、予定を変えて自ら昭和天皇を玄関まで送った。
マッカーサーにとって、最大の好意の表れだった。
翌日、日本の新聞は、昭和天皇とマッカーサーの会見を一斉に報道したが、写真は、不敬にあたるとして掲載が禁じられた。
GHQは、直ちに禁止処分を取りやめさせて、写真の掲載を指示した。
会見の翌々日、写真は新聞の一面に掲載された。
そして、日本中の人々に衝撃を与えた。
作家高見順は「かかる写真は誠に古今未曾有」と怒りをあらわにした。
昭和天皇とマッカーサーの記念写真は、日本の国民に、あらためて敗戦を実感させるものだったのである。
写真掲載の3日後、マッカーサーは軍事補佐官から、天皇について進言を受けた。
「もしも天皇が、戦争犯罪人のかどで裁判にかけられれば、統治機構は崩壊し、全国的な反乱が避けられないだろう」と。
この年11月、アメリカ政府は、マッカーサーに対し、昭和天皇の戦争責任を調査するよう要請した。
マッカーサーは、「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」と回答した。
敗戦から1年余りの昭和21年11月3日、それまでの大日本帝国憲法に代わって、GHQの改正案を元に政府が手を加えて、日本国憲法が公布された。その第1条にこう書かれている。
「天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、その地位は主権の存する日本国民の総意に基づく」。

