「もう一つ信号を待って」

 志賀内泰弘 


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 右肩に掛けたバッグを揺らしながら、駅に向かって歩いているとケータイが鳴った。 


 山口杏子は大股の歩幅を緩めることなく、バックからケータイを取り出した。 


 「ああん、何でこんな時に!」 


 電話の主は、母親だった。 


 「もしもし…、杏子かね…」 


 「何よ、お母さん」 


 「ううん、ちょっとね…」 


 「今、急いでるのよ」 


 杏子は、生命保険の営業をしていた。 


 就活が上手くいかず、大学を卒業してしばらくの間、アルバイトで食いつないでいた。 


 アパートの家賃を支払うと、もうほとんど残らない。 


 農家をしている実家から届く野菜のおかげで生きていくことができた。 


 「どうなの、仕事は?」 


 「頑張ってるわよ、もちろん」 


 いつも母親は心配してくれていた。 


 でも、杏子は弱音を見せたくなかった。 


 一つ泣き言を口にすると、そこからすべてが崩れ落ちそうな気がしていたからだ。 


 去年の秋に、ようやく外資系の生命保険会社に就職が決まった。 


 しかし、喜んでいる暇はない。 


 研修期間の六ヶ月を終えると、即戦力としての成績が求められる。 


 いきなり固定給が五分の一になり、後は歩合制になったのだ。 


 杏子は、まだ一件も新規の契約が取れないでいた。


 「それならいいけど」 


 「これから大学の友達のところへ会いに行くのよ。そうそう、3年くらい前の夏休みにうちに泊まりに来た子覚えてる?」 


 「うんうん、覚えてるわよ」


 「あの子にね、保険に入ってもらおうと思って」 


 友達という友達にはみんな断られた。 


 保険の話をすると、急に嫌な顔になる。 


 それがわかっていたので、一番の仲良しのアヤにだけは保険の話はしたくなかった。 


 でも、もう崖っぷちだった。 


 今月末までに一件でも成約できないとクビになってしまう。 


 「そう…、杏子、何だか息がハアハア言ってない?」 


 「駅まで歩きながら喋っているのよ」 


 「そんな…喋るときくらい、どこかに座りなさいよ」 


 「あのね、お母さん。今、仕事中なのよ。それに、こっちじゃ歩きながらケータイで喋るなんて当たり前なのよ」 


 「せわしないねぇ」 


 「もうっ」 


 「忙しいのはわかってるけど、たまには帰って来られんのかね。あさって、うちで花見をするんよ」 


 「そんなん、帰れるわけないでしょ!」 


 杏子は、ついつい怒鳴ってしまった。 


 怒鳴りながら、胸の中は郷愁であふれそうになっていた。 


 実家の真向かいに流れる小川の土手には、桜の古木があった。 


 桜が咲く時期になると、親戚のみんなが集まってお花見をするのが年中行事の一つだった。


 「お父さんもね、杏子の歌が聞きたいって言ってるのよ」 


 目の前には畑が広がる。 


 カラオケの機械を運び出し、さながら一族ののど自慢大会になる。 


 杏子は、毎年その桜を見ながら育った。 


 いや、桜に見守られて育ったというべきかもしれない。 


 樹齢は200年以上と聞いている。 


 父親も、祖父も、そのまたご先祖さまも、その桜の前で暮らし続けてきた。 


 「どうしたん?」


 「お父さんもね、杏子の歌が聞きたいって言ってるのよ」 


 目の前には畑が広がる。 


 京子は辛い気持ちを見抜かれていることがわかっていた。 


 「ううん、ちょっとね」 

 (だめだ、だめだ)張り詰めた心は一度緩めると元に戻らない。 


 京子は心にムチを打った。 


 人込みをかき分けて、ジグザグとビルの谷間のアスファルトを駆けるように歩いた。


 「そう…杏子がいないお花見はさみしいねぇ…」 


 「やめてよ、もう」 


 そう言いながら、目頭が熱くなってしまった。


 手の甲で目尻を拭う。

(頑張らなくっちゃ) 


 目の前の信号が赤になり、立ち止まった。


大きな交差点だった。 


 ふと、横断歩道の向こう側に、一本の桜が目に入った。 


 枝垂れ桜だ。 


 満開はとう過ぎ、青い芽が吹き出している。 


 ビル風にあおられて、パァーと花吹雪が舞った。 


 杏子は、それを見てひらめいた。 


 「お母さん、あのね、一緒にお花見しようか」


 「え? 帰ってくるん?」 


 「ううん、帰れんけど…ちょっと待っててね」


 そう言うと京子は、ぐるりと辺りを見回した。


 近くのビルの一階の自動販売機に駆け寄る。 


 コインを投げ入れた。 


 カタンッ! 


 「お母さんさあ、いま何か飲むものある?」


 「飲むものって…目の前に湯飲みのお茶があるよ」 


 「今さあ、缶コーヒー買ったのよ。乾杯しない?」 


 「やあねぇ、変なこと言って」 


 「お母さんは土手の花、私も目の前に桜があるのよ」 


 「え!? そうなの」


 「うん」

信号が青になった。 


 信号待ちの人たちが一斉に渡り始めた。 


 杏子一人だけが、交差点の角にポツンと立ち止まる。 


 「じゃあね、カンパーイ!」 


 目の前の桜を田舎の桜と重ね合わせながら、青空に高く缶コーヒーを掲げた。 


 電話の向こうからも、少し恥ずかしそうな母親の声が聞こえた。 


 「カンパイ」 


 「ありがとう、お母さん」 


 信号は再び赤になった。


 「そうそう、忘れとったよ」 


 「何?」 


 「お父さんの大学んのときの友達がそっちで会社の社長さんしとるって。
 


それで杏子の保険に入ってくれるように頼んでくれたんだって」


 「え…」 


 父親の笑顔が浮かんだ。 


 隣で信号を待つ人が、ケータイを手に涙を流している杏子をチラッと見やった。 


 信号が再び青になった。 


 杏子はもう一つだけ、信号が青に変わるまでここで花見をしていようと思った。