快楽を得たいという思いは、誰にも備わっているものです。


それは本能だからしかたのないこと。


しかし大金持ちになりたいと、めちゃくちゃに働いて大金を貯めたとします。


でもその大金をあの世へは持っていけません。


お金なんて、一時預かりで自分の手もとにあるだけ。


それでもいいというなら執着すればいいし、それがバカらしいと思うならほどほどに稼いで、ほどほどに暮らす方法を見つければいいのです。


食べ物にしてもそうです。


健康で一生を終えたいなら節制すればいいし、病気になってもいいと思うならおいしいものを食べ尽くせばいいだけのこと。


麻薬だってどうぞお好きに。


つまり、どっちを選ぶかはその人の価値基準によるのです。


太く短く生きるか、細く長く生きるか。


胸をはって正々堂々とお天道さまの下で大手を振って歩くか、“みそさざい”という鳥がいますが、その鳥のように暗い軒下ばかりを飛んで暮らすのか。


後ろめたい思いをしながら暗い軒下で暮らすのが好きならそれでいいのです。


誰も強制はできません。


でも青空の下を大手を振って歩きたいという気持ちがあるなら、快楽はある程度は犠牲にしなければいけない、ということです。


私も昔はギャンブルをやっていました。


でもよく考えてみると、パチンコに通っていた頃は、仕事がうまく行っていない時期。


やがて仕事がうまく回るようになり、次々と成果が出始めると、ギャンブルなんて興味がなくなってしまいました。


つまり何か生きがいがあれば、快楽に溺れて人生を台なしにすることはないのです。


生きがいをたくさん持っている人は、麻薬、ギャンブルといった、本能に基づく快楽に重きをおかなくてすみます。


でも生きがいがない人は、どう生きればいいのかわからない。


だから生活の中に本能に基づくものしかなくなってしまう。


快楽から得るスリルに走ってしまうのです。


でもそういう快楽は人を滅ぼしこそすれ、人をヴィヴィッドに活性化させる手助けにはなりません。


毒にしかならないのです。


暮らしの中に生きがいを持つこと。


それが安心と充実した人生を送るコツなのです。


その生きがいとは人によってそれぞれで、私のように仕事の場合もあれば、趣味の場合もあるでしょう。


文化もそのひとつです。


生物的な本能だけに基づくものではなく、知識の吸収や実践を通して自分が成長していけるものであればなんでもいいと私は思っています。


生きがいの数が多ければ多いほど、精神は安定し、人生は豊かになるでしょう。


いくつもいくつも分散させて、たくさん持っておけばいいのです。


その生きがいの中にこそ、人生の快楽の源があるのです。


出典元:(愛の話 幸福の話 集英社)


 ※すべての人が幸せになる魔法の言葉たちより




 

 


Fibee 9種のスターターセット

 


タカミスキンピール