上野公園、不忍池の木陰で将棋盤を囲んでる姿をよく見かけます。 


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 将棋、駒の動かし方は知ってますが、あの知的格闘技は奥が深く、私にはとても出来ないと思ってます。 


 ウイキペディアで将棋に関してこんなエピソードを見かけました。 


 戦後、GHQから「将棋はチェスとは違い、敵から奪った駒を自軍の兵として使う。これは捕虜虐待という国際法違反である野蛮なゲームであるために禁止にすべきである」


との意見があったところ、


「チェスは捕虜を殺害している。これこそが捕虜虐待である。将棋は適材適所の働き場所を与えている。

常に駒が生きていて、それぞれの能力を尊重しようとする民主主義の正しい思想である」


「男女同権といっているが、チェスではキングが危機に陥った時にはクイーンを盾にしてまで逃げようとする」と反論し、禁止を免れたそうです。 


 ひすいこたろうさんのブログより米長邦雄さんのお話をご紹介します♪


 ●名言セラピー 将棋棋士 米長邦雄 タイトル獲得数19期は堂々歴代5位。 

 その米長邦雄がずっと取れなかったタイトルがある。 

 名人位です。 

 1度目の挑戦……失敗 

 2度目の挑戦……失敗 

 3度目の挑戦……失敗 

 4度目の挑戦……失敗 

 5度目の挑戦……失敗 

 6度目の挑戦……失敗 


 「名人」というタイトルの歴史と伝統の重みは別格のようです。 


 何度挑戦しても名人位をとれぬまま、米長邦雄は50歳を迎えようとしていた…… 


 そしていよいよこれが最後のチャンスか? 


 名人位、7度目の挑戦を迎えた。 


 実は、米長邦雄はその数年前から、今まで培ってきたそのすべてを捨てたのです。 


 それまでトップ棋士としてゆるぎない実績を誇ってきた自らのスタイルを捨てまさに一から変えたのです。 


 輝かしい成功体験を捨て、若手に教えをこうて最先端の将棋を一から学びだしたのです。 


 ◆ 将棋の対局は僕らの想像をはるかに超える世界のようです。 


 「対局が終わると、頭の血管が膨れあがり、頭皮が真っ赤になっていることがある」 


 これは米長邦雄の言葉ですが、それほど長く、果てしなく集中するからです。 


 羽生善治も対局が長引いたときなどは、2キロも痩せていることがあると言います。 


 座りながら2キロやせるって、まさに将棋は頭脳のアスリートなわけです。 


 それを米長邦雄は50歳を目前に自らの築きあげたスタイルを捨て一から学び出したというのです。 


 そうして迎えた1993年。 米長邦雄 7度目の挑戦にして悲願の名人位を49歳11ヵ月で獲得。 


 史上最年長記録です。 


 新宿の京王プラザホテルで行われた名人就位式・祝賀パーティーには、2000人を超える異例の人数が集まりました。 


 その席で、米長邦雄は羽生善治を指差してこう言いました。 


 「来年春の名人戦の対局相手として、待っている」 羽生善治 お前と戦いたいってことです。


 将棋は一人ではできない。 


 将棋に人生をかけた者同士が同じキャンパスで創造するアート。 


 米長邦雄は最高のアートを創造するため、いままでの全てを捨て、フルモデルチェンジを果たしたのです。 


 新しい自分の可能性と出会うこと、それってワクワクしますよね。 


 それってゾクゾクしますよね。 


 やっちゃう? やっちゃう? 


 僕らもやっちゃう? 


 フルモデルチェ────────────────────ンジ♪ 


 ひすいこたろうでした(^^♪ 


 ※米長 邦雄(よねなが くにお、1943年6月10日 ) 将棋棋士。2003年11月、紫綬褒章受章。2003年12月、引退。タイトル獲得数19期は歴代5位。永世棋聖の称号を保持し、引退前から名乗る。棋士番号85。佐瀬勇次名誉九段門下。日本将棋連盟会長(2005年 - )。財団法人JKA(競輪、オートレース)評議員(2009年 - )。東京都教育委員(1999年12月 - 2007年12月)。輝かしい戦績だけでなく、そのキャラクター・思想・言動・ユーモアにより、将棋界の外においても大きな影響力、人脈を持ち、話題も提供する人物。山梨県南巨摩郡増穂町。中野区立第八中学校、東京都立鷺宮高等学校卒業。中央大学経済学部中退。