1895年のこの日、富士山頂に野中測候所が開設した。


【アクティビティジャパン】遊び・体験・レジャーの予約サイト

 

大日本気象学会の野中至が私財を投じて建設したもので、現在の気象庁富士山測候所の前身となった。


野中至は、筑前福岡藩士・野中勝良の息子として筑前国(現・福岡県)に生まれる。


富士山観測所の設立を思い立ち、1889年に大学予備門(現・東京大学)を中退。


この年、富士山頂久須志岳の石室で中村精男ほか2名が、山中湖畔では近藤久治朗が38日間、初めて正式な気象観測を開始している。


当時はまだ高地測候所は信州にしかなく、高山での観測は年に数回に限られていたが、野中は富士山での年中観測を目指した。


1895年初頭の厳寒期に登頂し、富士山頂での越冬が可能であることを確信、同年夏に再び登頂して私財を投じて測候用の小屋(約6坪)を剣ヶ峰 (富士山)に新設、中央気象台の技師らも合流した。


剣ヶ峰にした理由を「風が弱いところは積雪が多いため、積雪の少ない風の強いところを選んだ」と語っている。


9月末に食料など備蓄財の調達のため一旦下山し、閉山後の10月に再び登頂。


妻・千代子も10月半ばに合流。


高山病と栄養失調で歩行不能になる。


12月に慰問に訪れた弟の野中清らによって夫妻の体調不良がわかり、中央気象台の和田雄治技師らの救援で月末に両者とも下山し、山麓の滝河原に逗留、村人の手厚い保護を受けたのち、小石川原町の自邸に戻る。


野中夫妻のこの決死の冒険は評判をよび、小説や劇になった。


越冬断念により十分な結果が得られなかったことから、1899年(明治32年)本格的な観測所の建設を目指し、富士観象会を設立、富士山気象観測への理解と資金援助を呼びかけた。


その後も絶えず登山し観測を続け、野中の事業はのちに中央気象台に引き継がれた。




 

 


リッドキララ

 



Fibee 9種のスターターセット