昭和20年8月の終戦後、日本は未曾有の食料危機となりました。

物価も高騰しました。

食料の配給制度は人々の生活を賄うに足りず、不衛生で暴力が支配する闇市があちこちに立ち並びました。

それまで、東亜の平和を願い皇国不滅を信じていた人々は、価値観を根底から否定され、いかに生きるべきか、どう生きるべきかという規範さえも失い、呆然とし頽廃と恐怖と飢えが人々を支配してた。

その日本人が、ある事件をきっかけに、国土復旧のために元気になって立ち上がった。

そのきっかけとなったのが、昭和天皇の全国御巡幸だったといわれています。

昭和天皇の御巡幸は、昭和21年から、神奈川県を皮切りに昭和29年の北海道まで、足かけ8年半にかけて行われました。

全行程は3万3000km、総日数は165日です。

この御巡幸を始めるにあたり、陛下はその意義について次のように述べられています。


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この戦争によって祖先からの領土を失い、国民の多くの生命を失い、たいへんな災厄を受けました。

この際、わたしとしては、どうすればいいのかと考え、また退位も考えた。

しかし、よくよく考えた末、この際は、全国を隈なく歩いて、国民を慰め、励まし、また復興のために立ちあがらせる為の勇気を与えることが自分の責任と思う。


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そして昭和24年5月。

九州への御巡幸でのこと。

この日、陛下は、たってのご希望で、佐賀県三養基郡にある因通寺というお寺に御巡幸されています。

このお寺には洗心寮という引き揚げ孤児の寮がありましたが、戦災孤児や引き揚げ者の境遇を気にかけておられた昭和天皇は、ここを佐賀県での最初の御巡幸先にされたのです。

その洗心寮で見られたのが次のような光景でした。

孤児たちには、あらかじめ陛下がお越しになったら、部屋できちんと挨拶するように申し向けてありました。

ところが、一部屋ごとに足を停められる陛下に、子供達は誰一人、ちゃんと挨拶しようとしない。

昨日まで、あれほど厳しく挨拶の仕方を教えておいたのに、みな、呆然と黙って立っている。すると陛下が子供達に御会釈をなさるのです。頭をぐっとおさげになり、腰をかがめて挨拶され、満面に笑みをたたえていらっしゃる。

それはまるで、陛下が子供達を御自らお慰めされているように見受けられたそうです。

そして陛下は、ひとりひとりの子供に、お言葉をかけられる。

「どこから?」

「満州から帰りました」

「北朝鮮から帰りました」

すると陛下は、この子供らに「ああ、そう」とにこやかにお応えになる。

そして、

「おいくつ?」

「七つです」

「五つです」

と子供達が答える。

すると陛下は、子供達ひとりひとりにまるで我が子に語りかけるようにお顔をお近づけになり、「立派にね、元気にね」とおっしゃる。

陛下のお言葉は短いのだけれど、その短いお言葉の中に、深い御心が込められています。

この「立派にね、元気にね」の言葉には、「おまえたちは、遠く満州や北朝鮮、フィリピンなどからこの日本に帰ってきたが、お父さん、お母さんがいないことは、さぞかし淋しかろう。

悲しかろう。

けれど今、こうして寮で立派に日本人として育ててもらっていることは、たいへん良かったことであるし、私も嬉しい。

これからは、今までの辛かったことや悲しかったことを忘れずに、立派な日本人になっておくれ。

元気で大きくなってくれることを私は心から願っているよ」というお心が込められているのです。

そしてそのお心が、短い言葉で、ぜんぶ子供達の胸にはいって行く。

陛下が次の部屋にお移りになると、子供達の口から「さようなら、さようなら」とごく自然に声がでるのです。

すると子供達の声を聞いた陛下が、次の部屋の前から、いまさようならと発した子供のいる部屋までお戻りになられ、その子に「さようならね、さようならね」と親しさをいっぱいにたたえたお顔でご挨拶なされるのです。

こうして各お部屋を回られた陛下は、一番最後に禅定の間までお越しになられます。

この部屋の前で足を停められた陛下は、突然、直立不動の姿勢をとられ、そのまま身じろぎもせずに、ある一点を見つめられます。

それまでは、どのお部屋でも満面に笑みをたたえて、おやさしい言葉で子供達に話しかけられていた陛下が、この禅定の間では、うってかわって、きびしいお顔をなされた。

入江侍従長も、田島宮内庁長官も、沖森知事も、県警本部長も、何事があったのかと顔を見合わせます。

重苦しい時間が流れる。

ややしばらくして、陛下がこの部屋でお待ち申していた女の子に、近づかれました。

そしてやさしいというより、静かなお声で、引き込まれるように「お父さん。お母さん」とお尋ねになったのです。

一瞬、侍従長も、宮内庁長官も、何事があったのかわからない。

陛下の目は、一点を見つめています。

そこには、女の子の手には、二つの位牌が胸に抱きしめられていたのです。

陛下は、その二つの位牌が「お父さん?お母さん?」とお尋ねになったのです。

女の子が答えます。

「はい。これは父と母の位牌です」

これを聞かれた陛下は、はっきりと大きくうなずかれ、「どこで?」とお尋ねになります。

「はい。父は、ソ満国境で名誉の戦死をしました。母は引揚途中で病のために亡くなりました」この子は、よどむことなく答えました。

すると陛下は「おひとりで?」とお尋ねになる。

父母と別れ、ひとりで満州から帰ったのかという意味でしょう。

「いいえ、奉天からコロ島までは日本のおじさん、おばさんと一緒でした。船に乗ったら船のおじさんたちが親切にしてくださいました。佐世保の引揚援護局には、ここの先生が迎えにきてくださいました」

この子が、そう答えている間、陛下はじっとこの子をご覧になりながら、何度もお頷かれました。

そしてこの子の言葉が終わると、陛下は「お淋しい」と、それは悲しそうなお顔でお言葉をかけらた。

しかし陛下がそうお言葉をかけられたとき、この子は口元を引き締め

「いいえ、淋しいことはありません。私は仏の子ですから」

陛下は少し驚いて女の子の目を見つめたが、女の子はひるまずに続けた。

「仏の子は、亡くなったお父さんとも、お母さんとも、お浄土に行ったら、きっとまたあうことができるのです。お父さんに会いたいと思うとき、お母さんに会いたいと思うとき、私は御仏さまの前に座ります。そしてそっとお父さんの名前を呼びます。そっとお母さんの名前を呼びます。するとお父さんもお母さんも、私のそばにやってきて、私を抱いてくれます。だから、私は淋しいことはありません。私は仏の子供です」

こう申し上げたとき、陛下はじっとこの子をご覧になっておいででした。

この子も、じっと陛下を見上げています。

陛下とこの子の間に、何か特別な時間が流れたような感じがしたそうです。

そして陛下が、この子のいる部屋に足を踏み入れられます。

部屋に入られた陛下は、右の御手に持たれていたお帽子を、左手に持ちかえられ、右手でこの子の頭をそっとお撫でになられました。

そして陛下は、「仏の子はお幸せね。これからも立派に育ってくださいね」と言葉をかけられた。

そのとき、陛下のお目から、ハタハタと大粒の涙が一つ、二つ、お眼鏡を通して畳の上にこぼれ落ちた。

すると、ふいに女の子は、小さな声で「お父さん?」と呼んだそうです。

これを聞いた陛下は、深くおうなずきになられた。

その様子を眺めていた周囲の者は、皆、言葉をなくして顔を覆った。

東京から随行してきていた新聞記者も、肩をふるわせて泣いていた。

もはや陛下はあふれる涙を隠そうともしない。陛下にはこらえられぬ事のない剛の風を備えた武人の一面もあった。

が、この時ばかりは、ついにこらえるのをあきらめてしまったようだった。

寮を去るまで付いてきてしまった大勢の子どもたちに見送られ、天皇は因通寺を後にした。

皇居にお帰りになられた昭和天皇は、この時のことをこう詠まれました。

「みほとけの教へまもりてすくすくと生い育つべき子らに幸あれ」

この御製は因通寺の梵鐘に刻まれているそうです。


参照:ぼやきくっくり,ねずさんの ひとりごと

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日本の皇室は世界で最古であり日本は世界最古の独立国とも言われます。

東日本大震災もそうですが、戦後の日本が復興できたのも天皇の存在やご巡幸はとても重要だったと思います。

日本の歴史の中で天皇という存在はきっと日本国民の心の中深くに、存在してきたのではないでしょうか。 


※あなたが輝く幸せのことばより



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