
炊きあがったばかりの白いご飯はきらきらと輝いている。
どんなおかずと食べようか。
いや一口だけは、ご飯の味をそのまま味わおうか。
お米をそんな姿に簡単に炊き上げる「電気炊飯器」は日本生まれである。
有名な言葉がある。
「初めちょろちょろ、中ぱっぱ、赤子泣いてもふた取るな」
江戸時代は米を鉄の釜で炊いていた。

その時の言わば“教訓”であり、
「初めは弱火で、途中は火の粉が飛び散る火力で、そして蒸らす時はどんなことがあっても、たとえ赤ん坊が泣いてもふたを開けてはいけない」という、今日でいう“レシピ”でもある。
かつては朝早く起きて、薪で釜戸に火を起こし、研いだ米を入れた釜を火にかけることが日課だった。
なかなか時間と手間のかかる一品だった。
そんな歴史に「スイッチをいれるだけでご飯が炊ける」という夢のような道具が登場する。
第二次大戦が終わって、日本は高度成長期に向かう入り口に立っていた。
電気洗濯機、電気冷蔵庫、そして白黒テレビが「三種の神器」ともてはやされていた時代に、「電気炊飯器」も登場した。
開発したのは愛媛県出身の工業技術者である三並義忠さん、進駐軍向けの電気温水器を作るなど、その腕はたしかだった。
現在の「東芝」当時は「東京芝浦電気」だった家電メーカーからの開発依頼を受けた。
電気によって自動でご飯が炊ける炊飯器ができないか?
1952年(昭和27年)のこと、三並さんは44歳だった。
理論的には分かっていた「強火で一気に炊き上げれば美味しいご飯が炊ける」。
そのための料理方法も分かっていた「釜の水が沸騰してから20分間加熱し、スイッチを切ればいい」。
しかしこれを自動的に実現することは難題だった。
米や水の量によって沸騰するまでの時間は違う。
夏なのか冬なのか気温によっても時間は違う。
芯のあるご飯や焦げのあるご飯が炊けてしまう失敗のくり返し。
三並さんは自宅や工場を抵当に入れ資金を作り、そのお金で米を買い続け、米を炊き続けたと伝えられている。
やがて、道は大きく開けた。
水の蒸気をタイマー代わりに使うことに思いついた時だった。
釜を二重にして外側の釜に20分間で蒸発する量の水を入れて、沸騰する100度に上がったら、その温度を察知してスイッチが切れる。
「電気炊飯器」の誕生だった。
しかし次なるハードルが待っていた。
この画期的な新製品は、1955年12月に700台から販売がスタートしたが、家電販売店は「米が自動に炊けるの?」と半信半疑。
さらに値段が高い。
大卒社員の初任給が1万円だった時代に、電気炊飯器は3000円余りという高級品だった。
売れない。
しかし、東芝の販売担当者らは、この電気炊飯器を持って、米を作っている農村を訪ねて、実演販売するというセールス作戦に乗り出した。
その努力は実を結んだ。

夜寝る前にセットしておけば朝にはご飯が炊けている。
「1時間寝坊できる」と評判になり、4年後には日本の家庭の半数にまで、電気炊飯器は広がったのだった。
電気炊飯器の進化は続く。
1970年代には、炊けたご飯を長時間保温できる「電子ジャー炊飯器」が登場、ご飯を移し替える手間も省けた。
さらに内蔵されたマイクロコンピューターによって微妙な火加減の調整も可能になるなど、ご飯の味はますまず美味しさを極めていく。
お米という、日本人の食文化に欠かせない食材を、いかに手間かけず、いかに美味しく食卓に乗せることができるかを追求した電気炊飯器の歩み。
きらきらと輝く白いご飯、その湯気の向こうには、開発に関わった三並さんら先人たちの笑顔が浮かんでいるようだ。
日本生まれ・・・「電気炊飯器は文化である」。
三並義忠ウィキペディアhttps://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E4%B8%A6%E7%BE%A9%E5%BF%A0
