日露戦争でもっとも激しい戦闘が行われたといわれている、中国は旅順での戦い。 


ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 

このときの日本軍司令官は「乃木 希典(のぎ まれすけ)将軍」でした。 


日本軍は多くの戦死者を出しながらも(乃木将軍の二人の息子も戦死しています)、ロシア陸軍が築いた巨大な要塞を崩しました。 


この勝利をおさめた乃木将軍と、ロシア軍の総司令官だったステッセルが、共に会見をしたときのことです。 


あるアメリカ人が、この会見の模様を撮らせてくれと、乃木将軍に願い出ます。 


それに対し乃木将軍はこう言いました。 


「武士道の精神からいって、ステッセル将軍の恥が残るような写真はとらせてはならない」 


その後、再度外国の記者団が写真撮影を願い出たときに、条件をつけて受け入れました。 


その条件とは、ステッセル将軍に帯剣を許し、「われらが友人となって同列に並んだところを一枚だけ許そう」と言ったのです。


敗れた側の大将が、勝利した側の大将の前で剣を脇にさすことは、当時ありえないことだったそうです。 


この乃木将軍の言葉を聞いた外国人記者たちは、武士道精神の美しさと寛大さに感動したといいます。 


しかし、話はこれで終わりません。 


このステッセル将軍は、日露戦争敗北の責任をとらされ、ロシア皇帝より銃殺刑を宣告されました。 


それを知った乃木将軍、すぐにロシア皇帝に手紙を送り、ステッセル将軍が死力を尽くしてロシアのために戦っていたことを綴り、処刑をとりやめるよう訴えました。 


その手紙のおかげか、処刑は中止され、シベリア流刑で済むことになりました。 


とはいえ、遠く離れたシベリアへ送られたステッセル将軍にも家族がいます。 


残されたステッセル将軍の妻や家族。


敵だった国の将軍の家族。 


この敵国の将軍の家族に、なんと、自分が亡くなるまで生活費を送り続けたそうです。 


この戦いで、自分の息子二人も亡くしているにもかかわらず! 


この乃木将軍の生き方に、感動します。 


こういう先人がいてくれるという事にも、感謝の念が湧き上がってきます。 


すこしでも、近づけるように、人間力を磨いていきます(*^_^*)


 ※魂が震える話より


 乃木希典 ウィキペディア http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8


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