安岡正篤師の心に響く言葉より…


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『史を読む、訛字(かじ)に耐うるを要す。正に、山に登る、仄路(そくろ)に耐え、雪を踏む、危橋(ききょう)に耐え、閑居、俗漢に耐え、花を看(み)る、悪酒に耐うるが如くにして、此(ここ)に方(まさ)に力を得ん。』


「史を読む、訛字(誤字、誤植など)に耐うる」とは、これも非常におもしろい言葉です。


耐えるということについては名高い「四耐」がある。


清末の名宰相・曾国藩(そうこくはん)を非常に尊敬し、敬慕した蒋介石総統はこの「四耐」と「四不」ということをよく言っておった。


私もこの格言が好きでよく使います。

 

四耐とは、「まず冷に耐える」こと。


人間の冷ややかなること、冷たいことに耐える。


それから人間生活にはいろいろな苦しみがあるから「苦に耐える」。


いろいろ「煩(わずら)わしいことに耐える」、そして最後に「閑(かん)に耐える」という。


「耐冷、耐苦、耐煩、耐閑」の四つの耐であります。このうちで冷と苦と煩は、各人のいろいろの四耐の中にたいてい入っている。


しかし、「閑に耐える」ということは、なんでもないことのようで案外できない。


人間は昔から暇をもてあますなどと言うが、あまり学芸のない人などは、特にこの閑に弱い。


しかし、いろいろと精神生活が豊富になると、人間は逆に閑というものは非常に嬉しくなる。


そして、閑に耐えれられるようになるには、よほど人物の修行を要します。


誰もが通る切り拓かれた本道ではない脇道、あまり人の通らない道、これが仄路(そくろ) 。


山に登るのに、ときには危険でもあるし、あるいは骨が折れる。


しかしそういう仄路に耐えていく。


わざと仄路を踏破するところに登山の妙味もある。


「雪を踏む、危橋に耐え」、危なっかしい吊り橋、そんなところでヒヤヒヤしながら雪景色を楽しむ。


なるほどこれはおもしろい。


「閑居、俗漢に耐え」とは人間せっかく閑を楽しんでいるところに、俗物がやってくる、それに耐えることだ。


せっかく本を読もうとか、字を書こうとしているところへ、くだらない俗物がやってくる。


相手をしなければならん。


実際、大変な我慢、大変な忍耐を要する。


「花を看る、悪酒に耐うる」、せっかく花を看るんだから、酒もいい酒でありたい。ところがはなはだ悪酒だというと、実にぶち壊しとなるが、我慢を要することだ。

しかし、人間は百人百態といって、そういう自分の感情、自分の自由を忍んで、しかるべく対応していくと初めて、世渡り、人生の力もそこでつくのである。



『「酔古堂剣掃(すいこどうけんすい)」を読む』 

致知出版


ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)



「酔古堂剣掃」という書物は、明末の教養人・陸紹珩(りくしょうこう)が長年愛読した古典の中から会心の名言嘉句(かく)を収録した出色の読書録だ。


『酔古堂剣掃」は、人間が人間としての人格、人間としての教養、人間としての生活を潤し、心身を本当に養う、心の食べ物、精神・魂の食物だと安岡正篤師は言う。


「酔古堂剣掃」には、こんな味わい深い文章がある。


『野花艶目 不必牡丹 村酒酔人 何須緑蟻』 野花も目に艶(あで)やかなり/必ずしも牡丹(ぼたん)ならず/村酒も人を酔わす/何ぞ縁蟻(えんぎ・美酒の異称)を用いん。

野に咲く花も目にあでやかである。 

必ずしも牡丹(中国の代表的な花)でなければならないことはない。

村の地酒も人を酔わせる。 

何も銘酒でなければならないことはない。 

人知れずひっそりと野に咲く花に感動し、無名であるが有力な人々に感奮し、知られていない珠玉の言葉に酔いしれる…

また、「行年(ぎょうねん)六十にして六十化す」(荘子)という言葉がある。

安岡師はこれをこう解説している。

七十にして七十化す。

八十にして八十化す。

生ける限りは化していく。

これが本当の生、生き方です。

変化する能力、適応する能力がなくなるといわゆる老耄(ろうもう)である。

生ける限り駸駸乎(しんしんこ)として進化していく。

それが本当の人間の生であります。

難しいことだが、非常に適切なことで貴重なことで、歳をとることは自然だからいくらとってもいいが、歳をとっただけ変化していく。

人生の問題はここに極まると言うてもいいわけで、立派に歳をとることを成し得れば、尊くまた楽しいことだと思います。

閑を愉しみ…

生ける限り進化していく。

歳をとっただけ変化できる人でありたい。 


 

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