1953年7月31日、力道山が中心となり日本プロレス協会が結成されました。

大相撲関脇からプロレスラーに転向した力道山が、興行師で興行界のドンと呼ばれた永田貞雄と、関東屈指の顔役である新田新作(生井一家貸元で関東国粋会副幹事長の子分、新田組組長。新田建設経営。明治座の社長で経済事件の調停にも活躍)の物心双方の援助、後見によって設立しました。

この際、スポンサーとして経済界からは萩原吉太郎ら、右翼の黒幕の児玉誉士夫と親しい企業人グループが後援をしています。
1973年に興行団体としては機能停止。
力道山が1963年に亡くなった後の協会役員の構成は、会長の児玉誉士夫、副会長の田岡一雄(3代目山口組組長)、町井久之(東声会会長)となっている。
このため浜松より西の興行は田岡、関東は町井、東北以北は児玉の盟友である岡村吾一の影響下にあったとされる。
「日本プロレス協会」及び「日本プロレス興業株式会社」の上に戴いていた「日本プロレスリングコミッショナー」には、自民党副総裁の大野伴睦、川島正次郎らがいた。
このコミッショナーは「日本プロレス界全体の」コミッショナーで、東京プロレスなどからも認可申請が出されているが、実際に認可団体とされたのは日本プロレスだけであった。
なお、のちに首相となる中曽根康弘とは、力道山が持つリキアパートの一室を事務所とするほどの関係だった。
一時期は日本で唯一とも言えるプロレス団体であり、プロレス界に与えた影響は計り知れない。
力道山以後のプロレス界において双璧をなすことになるジャイアント馬場(後に全日本プロレスを創立)とアントニオ猪木(後に新日本プロレスを創立)も、1960年9月30日に日本プロレスで同時デビューしている。
また、後に国際プロレスを創立した吉原功も日本プロレスの元プロレスラーだった。
平成になってからの多くのインディー団体、全日本プロレス、新日本プロレスの元所属選手が主体となって興した団体が多く、人脈的にたどれば日本のほとんどの団体が日本プロレスに行き着くことになる。
日本プロレス ウィキペディア
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%97%E3%83%AD%E3%83%AC%E3%82%B9
