【自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ】 


ときめきが続く、お花の定期便bloomee(ブルーミー)

 

明治大学教授、齋藤孝氏の心に響く言葉より…


自分の感受性くらい自分で守ればかものよ (茨木のり子) 


 詩人茨木のり子は、73歳のときに『倚(よ)りかからず』(筑摩書房)という詩集を出しました。 


「もはやできあいの思想には倚りかかりたくない」から始まる詩「倚りかからず」を中心とした15編が掲載された本です。 


これが詩集として異例の大ヒット。


15万部も売れたのですからすごい。 


きっかけは朝日新聞の「天声人語」が取り上げたことですが、それだけ茨木さんが多くの人に愛されていたということでしょう。  


みんな、なぜそんなに茨木さんの詩が好きなのか。 


ひとつには、学校で習い、親しんでいたことがあると思います。


「わたしが一番きれいだったとき」や「自分の感受性くらい」といった詩を読んで、共感していたのです。


「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」という言葉は、詩の中のトドメの一言です。


「ぱさぱさに乾いてゆく心を/ひとのせいにはするな/みずから水やりを怠っておいて」から始まり、「気難しくなってきた」こと、「苛立つ」こと、「初心消えかかる」こと、それから「駄目なことの一切」を自分以外の何かのせいにするなと言い、最後にバシッと「自分の感受性くらい 自分で守れ ばかものよ」と言うのです。 


この詩には、人の考えそうな愚痴の、だいたいのことが書いてあります。 


愚痴を言おうとしたら、もう先手を打たれているという感じです。 


「こんなにハッキリ言うかな」というくらい、厳しいことをズバズバと言ってくれている。 


これがまた、詩であることの良さです。


説教ではありません。 


 一つひとつの言葉がキラキラと際立っていて、美しさがあります。 


フレーズの繰り返しのあとにトドメを刺すという、詩の形としても美しい。 


「ばかものよ」は、茨木さん自身への喝でしょう。 


読んでいてそれもわかります。 


そして同時に、自分のこととして身の引き締まる思いがするのです。 


感受性とは、自分で守るものだったのか。 


やたらと傷つきやすいものだと思っていたけれど、自分で守ればよかったのか。 


そういう感慨を持った人も多いのではないでしょうか。 


凜として前を向いて生きていくという茨木さんの言葉に触れると、ああ、こういう強い精神を自分も持ちたいものだと素直に思えます。 


感受性を自分で守るというとき、支えになるのはやはり精神です。 


その精神には、「張り」が必要なのだと思います。 


茨木さんの言葉、生き方そのものに「精神の張り」を感じます。 


「張り」のある、 厳しいけれども美しい言葉が、背中を押してくれるのです。 



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 《自分の感受性ぐらい》(茨木のり子)ぱさぱさに乾いてゆく心を ひとのせいにはするな みずから水やりを怠っておいて 気難しくなってきたのを 友人のせいにはするな しなやかさを失ったのはどちらなのか 苛立つのを 近親のせいにするな なにもかも下手だったのはわたくし 初心消えかかるのを 暮らしのせいにはするな そもそもが ひよわな志にすぎなかった 駄目なことの一切を 時代のせいにはするな わずかに光る尊厳の放棄 自分の感受性ぐらい 自分で守れ ばかものよ どんなことが起こっても、友人のせいにしないこと、親のせいにしないこと、時代のせいにしないこと…すべては、自分に水やりを怠ってきたことのツケが回ってきたのだから。だからこそ、自分の感受性や心は自分で守ること。だれも、他人は守ってはくれない。甘えるな! 


 人のせいにせず、自らの感受性を守っていきたい。 


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