山口瞳氏の心に響く言葉より…
これは私のことになるけれど、私は後に小説を書くようになり、38年1月に直木賞を受賞したのだけれど、記者会見の席上で、こう言った。
「こんごとも私はサラリーマンをやめません。サントリーを退社するつもりは絶対にありません」
私の発言は、やはり奇異の感を与えたようだ。
とりようによっては、文学賞を受けたことも、それによって文壇へ出たことも、それほどよろこんでいないように受け取られたかもしれない。
(いま)、開高健も私も、サン・アドという宣伝会社に勤めている。
その後の情勢の変化で、こうなった。
この会社には、私が寿屋東京支店に入社した頃の宣伝部の仲間である板根進がいる。
柳原良平がいる。
酒井睦雄(むつお)がいる。
それぞれの頭が薄くなり、宣伝の仕事が大きくなっただけで、周囲の感じは11年前のそれと全く変わっていない。
社長は当時の宣伝部長の山崎隆夫であり、会長佐治敬三(サントリー社長)、監査役鳥井道夫(サントリー専務)という会社である。
つまり、開高も私も、サントリーをやめていない。
板根進も柳原良平もやめていない。
いや、全くやめるつもりがないのである。
客観的に、第三者の立場から見るとすると、これはやはり奇異なことであるかもしれない。
実は、私自身、なんだか妙な具合だなと思うことがないわけではないのである。
私たちが飛び出てしまうか、居辛(いづら)くなって追い出されるかというほうが普通なのである。
ここにおいて、私たちも変わっているかもしれないけど、サントリーという会社も変わっていると思わないわけにはいかない。
この「変わっている」ということは、私にとってはいいことなのである。
「変わっている」ことを愛しているといったほうがいいかもしれない。
世の常の会社とは、どこかが違っている。
私が鳥井信治郎伝を書くとすれば、どんなふうに違っているか、どう変わっているかを書く以外に意味がないと思う。
「わいの『輝ける闇(やみ)』は傑作やで」と、開高が言う。
「そうや。あれはいいもんでっせ」と、佐治敬三がうなずく。
こんな会話が、普通の会社の社長と若い平社員の間でかわされるだろうか。
いま、そうなのではなくて、昔からそうだった。
佐治敬三と開高健は友達だった。
ちょうど、開高と私とが一度会っただけで友達になったように…。
『やってみなはれ みとくんなはれ』新潮文庫https://amzn.to/2YYip5g
本書に、芥川賞受賞のこんなエピソードが書いてあった。
『当時、芥川賞を対象として賭けが行われていた。
開高と大江健三郎に人気が集中していた。
大江健三郎のほうが優勢であった。
33年の1月末に、開高の受賞が発表された。
寿屋は沸きに沸いたのである。
宣伝課長の角南浩は、社員の内職に関してはきわめて厳格な男であったが、泣いてよろこんだ。
佐治敬三がバンザイを叫び、平井鮮一は雨漏りのする重役室で躍りあがった。
このあたりの感じも、いくらか奇妙なのではあるまいか。
小説を書いて収入を得るということは、なんといっても、禁じられているところの内職である。
さらに、開高健は出社常ならずという不良社員になっていた。
会社にとって、特に上層部にとって、それはニガニガしいことではなかったのか。
同僚たちにとって、人気者になり脚光を浴びた開高は羨望嫉視(せんぼうしっし)の的になるのが当然だったのではないか。
しかるに、そういった感じはまるでなかった。ひとかけらもなかった。』
昨今、副業だとか、兼業だとか様々な働き方改革のことが喧伝(けんでん)されている。
しかしながら、開高健、山口瞳が在籍した当時のサントリーは、現代でも通用するというより、さらに進んだ働き方をしていた。
運動部的なヒエラルキーを持ち込まず、自由闊達な雰囲気でありながら、義理や人情を大事にした。
また、女子社員の給料は同い年の男性より高かったという。
「やってみなはれ みとくんなはれ」開拓者魂。
何事にも挑戦する社風。
時代を切り拓くため…「変わっている」ことを愛する人でありたい。
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