山本五十六は「悲劇の提督」として、いまなお国民の人気を集める。

不戦平和を求め、最後の最後まで戦争に反対しながら、いざ開戦のご聖断が下るや、連合艦隊司令長官としてハワイ真珠湾奇襲攻撃を成功させ、その2年後、ソロモン諸島で戦死する。

五十六は旧長岡藩士・高野貞吉の6男として生まれる。

風変わりな名前は、父が56歳のときの子供であったことから名づけられた。

猛勉強の末、1901年、難関の海軍兵学校に2番の成績で合格する。

入学のときの面接で「おまえの信念は何か」と教官に問われ、即座に「やせ我慢」と答えたという。

五十六は「やせ我慢にこそ、男の生き方がある」という信念を17歳のときから持っていたことになる。

1924年12月、五十六は霞ヶ浦海軍航空隊に副長として就任するが、厳しい訓練について、隊員たちにこう訓示する。

「苦しいこともあるだろう、云い度いこともあるだろう、不満なこともあるだろう、腹の立つこともあるだろう、泣き度いこともあるだろう、これらをじっとこらえてゆくのが男の修行である。」

五十六は1919年、アメリカの駐在武官として渡米。

ハーバード大学に入学している。

アメリカの国情、国力を熟知しており、それだけに五十六は最後の最後まで米開戦に反対するのだった。

真珠湾奇襲作戦は大勝利をおさめたが、五十六の戦略としては真珠湾で勝利したあと、すぐに和平交渉に入るというものだったが、戦勝気分に酔った軍部も国民もそれを許さなかった。

長引けば負ける…という五十六の読み通りの展開になった。

また、五十六はこういうことも言っている。

「やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、ほめてやらねば、人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。」


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