『犬も食わない』 志賀内泰弘
犬も食わない・・・と言えば、夫婦げんかのことだ。
田所良太は、妻の真知子と詰まらぬことで言い争いをしてしまった。
良太が妻の妊娠を知ったのは、ほんの2週間前のことだった。
結婚して3年目。
そろそろ欲しいなぁ、と思っていた矢先のことでもあり、飛び上がるほどに喜んだ。
ところが、その妊娠がきっかけとなり、夫婦間に亀裂が入った。
3年間我慢していた妻のストレスが、噴出したのだった。
「いつも言ってるでしょ。シャツのポケットからハンカチを出しておいてよねって!この前なんかコンビニのレシートが入ったままで、洗濯してたいへんだったんだから」
「洗面台がまたビショビショ!使ったらちゃんと拭いてよね」
「いつも良太の実家にばっかり気を遣って。少しは私の身にもなってよね!」
本当は、そんなことは最近になって始まったことではないはずだ。
しかし、気分が悪くて食べ物がろくに取れない日もある。
そのはけ口が、良太に向かったのではないかと思っていた。
今日は、朝からバスで駅前のデパートへ買い物に出掛けた。
レストランで昼ごはんを食べている最中、またしても・・・。
「い~い。私は絶対に私立じゃなきゃダメ! この子がイジメに遭ってもいいと思ってるの?」
「そんな極端な・・・。イジメに遭わないように強い子に育てればいいよ」
「何言ってるのよ。小学生に強いも弱いもないのよ。良太はちょっと空手ができるからって、勘違いしてるのよ!」
「なんだよ!勘違いって!」
要するに、子供を私立に入れるか、地元の公立へ通わせるかという教育方針でもめたのだった。
まだ、産まれてもいないのに・・・。
(これはマズかったかな)
と良太が思ったときには遅かった。
真知子は、プイッと席を立ち、レジで精算を済ませて店を出て行った。
追いかけるようにして良太がついていく。
こんな時、
(ごめん、悪かったよ)
と素直に言えればいいのだろうが、良太も今日は意地を張っていた。
このところ、妻の文句ばかりを浴びて、我慢に我慢を重ねていたので爆発してしまったのだ。
バス停の列に真知子が並ぶ。
その後ろに良太が立った。
しかし、真知子は振り返りもしない。
すぐにバスはやって来た。
二人が乗り込むと、車内はほぼ満席だった。
一番後ろのシートが空いていた。
リアウインドウを背にした六人掛けだ。
一番両端にそれぞれ乗客が座っている。
そして、真ん中に、若い母親と幼稚園の制服を来た女の子が座っていた。
先に乗って、奥へ奥へと進んだ真知子が、母親の隣に座った。
後を追う良太は、仕方なく幼稚園の女の子の隣へ。
夫婦で、母娘をサンドイッチしたような恰好になった。
良太は、
(参ったなぁ~)
と思った。
家に帰るまで、なんとかご機嫌を取って仲直りしたいと思っていたのだ。
チラッと真知子の方を向くと、わざと良太の視線を避けてか、その女の子にやさしげな眼差しを送っていた。
バスが動き出してしばらくすると、女の子が母親にせがんだ。
「ねぇ~読んで~」
女の子は、手提げカバンから、絵本を取り出した。
「いいわよ。バスの中だから、小さな声でね」
「うん」
母親は、女の子と自分の真ん中に絵本を置いた。
「ごんぎつね」と書かれてあった。
良太はハッとした。
昔、昔、ずっと昔に読んだ覚えがあった。
それも、まったく同じものを。
たしか、父親が誕生日に買ってくれたものだったような気がした。
少し遠目に絵本を覗いた。
母親が、ささやくように読み始めた。
「これは、わたしが小さいときに、村の茂平というおじいさんから聞いたお話です」
良太は、おぼろげな記憶がよみがえってきた。
(そういえば、大好きな話で、何度もオフクロに読んで~と頼んだっけ)
でも、ストーリーがおぼろげにしか思い出せない。
* * * *
ごんというキツネはいたずら好き。
兵十(へいじゅう)が川でウナギを獲っているのを見つけ、こっそりと魚籠の中のウナギを川へ戻してしまいます。
「うわあ、ぬすっとぎつねめ」
ごんはウナギが首に巻き付いたまま逃げました。
十日後のこと。
ごんが兵十の家の前を通ると、何やら大勢の人が集まっています。
最初は、秋祭りかと思ったが、違うらしい。
兵十の母親が、病気で亡くなったのだ。
ごんは、その時、初めて知りました。
母親に食べさせたくて、兵十はウナギを獲りに行ったのだいうことを。
それを自分は・・・。
「ウナギが食べたいと思って死んだんだろう。あんないたずらをするんじゃなかった」
と反省します。
ごんは、お詫びにと、いわし売りの籠を盗んで、兵十の家の中に投げ込みます。
喜んでくれると思いきや、反対に兵十は泥棒と思われてしまう。
ごんは、今度こそはと、栗を拾って来て、兵十の家にこっそり届けます。
来る日も来る日も。
兵十は、誰の仕業かわからず、
「きっと神様の仕業だ」と思い込みました。
* * * *
ここまで、聴いて、良太ははっきりと思い出した。
悲しい悲しい結末を。
それを思うと、胸が締め付けられるようだった。
母親は、娘のために、朗読を続けた。
* * * *
そして、ある日のこと。
兵十は、家の中に入って来たごんの姿を見つけます。
ウナギを盗みやがったキツネだ。
兵十は、納屋に立て掛けてあった火縄銃を手に、足を忍ばせて。
戸口を出ようとしたごんを、
ドン!
倒れたごんに近づいて、兵十はびっくりしました。
土間に置いてある栗を見て知ります。
「おまえだったのか、いつも栗をくれたのは」
兵十は、火縄銃をぱたりと、取り落としました。
青い煙が、まだ、筒口から細く出ていました。
* * * *
良太は、気が付くと堪えきれずに泣き出していた。
(子供の前で恥ずかしいなあ)
と思い、下を向いて手の甲で涙を拭った。
その時だった。
「あ、あ~ん」
甲高い鳴き声が聞こえた。
二つ席をはさんだところで、妻の真知子がハンカチを取り出して泣いていた。
「あ~ん」
驚いて、母娘が真知子の方を見る。
なんと、前の方に座っていた乗客も「何事か」と後ろを振り返った。
その晩。
寝室の灯りを消した後、真知子が言った。
「今日は、ごめんなさい。学校なんてどこでもいいわ。 私、思いやりのある優しい子に育てたい」
良太は、
「うん、そうだな」
と答えた。
(参考図書)新美南吉・作、いもとようこ・絵「ごんぎつね」金の星社
※夫婦喧嘩はなんで犬も食わないの?
江戸時代、「火事と喧嘩は江戸の華(はな)」といわれるくらい火消し同士の喧嘩が盛んで、そして喧嘩が起こるとその「仲裁人」に選ばれるのは「名主等の顔役」で、「仲裁人」に選ばれることは「名誉」なことでした。
「夫婦喧嘩」に関しては「その仲裁人」になっても「名誉」なことではなく、「なんにでも鼻を突っ込む(嗅ぐ)」犬でさえ咥(くわ)えない(仲裁人として介入しない)という意味

