野口整体の野口晴哉さんの著書「風邪の効用」です。甲野善紀さんが名著だと仰っていたので、読みました。

目から鱗なことが多々ありました。

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実際風邪くらい厄介なものはない。また操法しだして一番難しい病気は何かというと風邪です。

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風邪を引くとたいてい体が整うのです。そうかといって高を括っていると悪くなる。

その難しい風邪を世間の人は簡単に風邪だと考えて片付ける。ちょっと風邪を引いたくらいだと言っている。まあ乱暴というより他ない。

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健康な体というのは弾力があるのです。伸び縮みに幅があるのです。

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ところが風邪を引くと、鈍い体が一応弾力を恢復するのです。

血管にも弾力性というものがあって、体の中の血管の弾力がなくなって血管が硬張ってくる、すると破れやすい。つまり弾力があるうちは血圧がいくら高くても破れないが、血管の弾力がなくなると破れてしまう。だから血圧というよりむしろ血管の硬化といいますか、血管の弾力状態の方が問題である。

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癌になる人とか脳溢血になる人とかいうのを丁寧に見ると皆、共通して風邪も引かないという人が多い。長生きしている人を見ると、絶えず風邪を引いたり、寒くなると急に鼻水が出るというような、いわゆる病み抜いたという人である。

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脳溢血などをやる人を見ると、そういう冷水摩擦組というのが非常に多い。いや、冷水摩擦に限らず、体や心を硬張らせ鈍らせたためという人が多い。

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風邪を経過して、後を良くするようにするということは難しい。早く風邪を治そうとして熱を下げようとしたり、咳を止めようとしたり、そういう中断法ばかり講じていると、風邪を治そうとしながら体が硬張り、治療しながら体がだんだん鈍くなるということになる。

私は体を整える方を主するのだから、病気を治すために体を悪くするようなことは嫌だと思っている。例えば、ひょう疽などをすれば指を切ってこれで治ったと言うのですけれども、切った指は永久にそのまま歪んだ形をしている。そういのは治ったのではなくて、ひょう疽の他にもう一つ、治療と称して体を傷つけたのだと私は思うのです。そういうのは、本当の治療ではない。

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やはり天然のまま傷つけず、むしろそれを鈍らせず、萎縮させず、自然のままの体であるようにするのでなければ、本当の意味の治療とはいえないのではあるまいか。

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とにかく、天然の体をできるだけ天然に保たなくてはならない。そうなるといろいろな治療行為よりは、却って風邪を上手に引き、上手に経過するということの方が意義があるのではなかろうか。

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そうやってそれぞれその人なりの風邪を引くと、その偏って疲れている処がまず弾力性を快復してきて、風邪を経過した後は弾力のあるピッチりした体になる。(中略)

大概の人は風邪を引くような偏り疲労を潜在させる生活を改めないで、風邪を途中で中断してしまうようなことばかり繰り返しているのだから、いつまでも体が丈夫にならないのは当然である。まあ風邪とか下痢というのは、一番体を保つのに重要というよりは、軽いうちに何度もやると丈夫になる体のはたらきであり、風邪と下痢の処理ということが無理なく行われるか行われないかということが、その体を健康で新しいまま保つか、どこかを硬張らせ、弾力を欠いた体にしてしまうかということの境になる。本当は愉気法を病気にならない前に使ってゆこうとすると、風邪をどう経過するか、下痢をどう経過するかということが、最も重要な問題になる。

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敏感な人が早く風邪を引く。だから細かく風邪をチョクチョク引く方が体は丈夫です。だから私などはよく風邪を引きます。ただし四十分から二時間くらいで経過してしまう。クシャミを二十回もするとたいてい風邪は出て行ってしまう。クシャミというのは一回毎に体中が弛んでいく。慣れているから自分で判るのです。

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私自身の風邪に対する処理方法は極めて簡単なのです。背骨で息をする、息をズーッと背骨に吸い込む。吸い込んでいくとだんだん背骨が伸びて、だんだん反ってくる、反りきると背骨に少し汗が出てくる。その間は二分か三分くらいです。汗が出たらちょっと体を捻ってそれで終える。背骨に気を通すと、通りの悪い処がある、そこが偏り疲労の個処であり、それに一生懸命行気をし、そこで呼吸をする。それでも通りの悪い処があれば、ひとに愉気してもらう。私はたいていの場合、活元運動をやってしまう。(中略)

下痢をした時は腰で息をする、風邪を引いた時は自分で胸椎に息を吸い込むという、それだけですんできました。

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この背骨で呼吸をするというのは、合掌行気の時、掌で呼吸をするというそれを背骨でやるだけのことで、これなら坐っていても寝ていても、腰掛けていても立っていてもできる。(中略)

背骨で呼吸をする。これはもう上手になれば一度か二度通せばよい。今私の背中に汗が出てきましたが、背骨気が通ったらその証拠が出るのです。だから背骨に気を通して汗がでなければ通したつもりだけなのです。背骨にズーッと気を通しているとある部分に汗が出る。ああ、そこの風邪だったな、と判る。だから自分の風邪は少しも面倒でない。

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体が快復しようとする動きが風邪の現象だから、鈍ったままだったら風邪を引かない、風邪を引くということ自体が、もう治ろうとする要求だから、感応をはかりさえすれば良くなる。実際、そうすると皆一晩で通ってしまう。風邪を二晩も三晩も宵越ししたなどというのは相当鈍い体で、まあなるべくなら引いたその日のうちに良くなるような早いうちに風邪を引けるような体になっているのがいい。

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だから治すということは病気を治すのではなくて、病気の経過を邪魔しないように、スムーズに経過できるように、体の要処要処の異常を調整し、体を整えて経過を待つというのが順序です。

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従って早く治せばいいという考えだけで病気に処することは、別の考え方からいえば、寿命を削る行為ともいえると思うのです。

早く治ろうというのがよいのではない。遅く治るというのがよいのでもない。その体にとって自然の経過を通ることが望ましい。できれば、早く経過できるような敏感な体の状態を保つことが望ましいのであって、体の弾力性というものから人間の体を考えていきますと、風邪は弾力性を快復させる機会になります。不意に偶然重い病気になるというようなのは、体が鈍って弾力性を欠いた結果に他ならない。

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時に、風邪を簡単に見積もられると憤慨して、風邪の水増し作戦といいますか、いつまでも治らないようなことをやってみたり、治ってもそれを認めようとしない人があります。

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だから風邪の経過を本当に考えるとなると、やはり体だけでなくて、その人の深層心理の動きといいますか、私の病気を安く見積もって失礼しちゃうなどという、その奥の心も見なければならない。

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だいたい健康は自分で保つものなのに、治すことが上手な者がいるうちは、皆それを当てにして自分の力で経過することを忘れ、自分の体の使い方で治すことを考えつかない。

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活元操法というのは意識があってもなくても構わない。信じようと信じまいと構わない。おっかなビックリ愉気し、治ってビックリし、効いてまたビックリする。それを繰り返していくうちに自信ができる。だから自信ができたらやるなどというなら一生そんな機会はあり得ませんし、自信でやるなどというのは僭越です。自信で生きている人などいない。生きているということだって自信ではないのですよ。生き方も知らないうちから生きているのです。愉気をふするということもそれと同じで、方法さえ憶えたら後は遮二無二やればあいい。やれば判ってきます。判った後で考えたらいい。

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だいたい風邪を引く前は皆、寝相が悪くなるものです。潜在している偏り疲労が順々に快復しようとする動きを起こすので皆、寝相が悪くなる。寝相が悪いので、風邪を引いたという人がありますが、風邪を引く過程として寝相が悪くなるので、無理に寝相を良くしていたら風邪を引かないどころでない、もっと重い病気にかからなければ間に合わない体になってしまう。

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私はよく「風邪がうつるといけないから、うつりたくない人は同じ部屋に寝ないこと」などと、とくにお嫁さんの風邪などには良くそれを言いますが、風というものはうつらないのです、本当は……。けれども1人で寝かせないと弛まないので、それで“うつる”ということを便宜的に使っています。けれども風邪がうつるなどということは私は考えたことがない。引くべき体の状態なら引くし、うつれば儲けものと思っている。風邪を引けば丈夫になるのですから、うつってもちっとも構わない。それを「うつるからどけ、どけ」と言うのはその方が早く治るからで、気を弛めて寝るということが風を治す場合の重要な条件です。

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風邪を引いて風呂に入ると悪くなることがよくある、そこで警戒するのだろうと思うのですが、悪くなるような変化を起こすものなら、使いますようによっては良くもなる。

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入浴というものの効果は、湯の温度で皮膚を刺激して体のはたらきを亢(たか)め、体の内部の運動を多くする。また温まると汗が出るということである。そういう面からいえば、風邪を引いた時にこそ大いに風呂に入らねばならない。私は赤ちゃんが風邪を引いたというのでも風呂に入れて治してきました。温度差をつくるだけですが、そうやれば入れないより入れた方がズーッと経過が早い。ただ使い方によっては悪くなるものだけに、使い方には充分に注意しなければならない。

どういうのがいけないかというと、まず寝際に入ることはいけない。よく温まって寝るといいと言うのですが、お酒の徳利じゃあるまいし、温まっただけ冷えるに決まっているのです、人間の体は……。それもただ冷えるだけでなくて、冷え過ぎになるのです。起きていればそれの調節がつくが、寝ている時では調節がつかない。だから寝際に入るというのはごく疲労した体を弛め、休める時に限られる。

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麻痺した半身不随を治すのと脳溢血の予防とを混同しているのだろうと思っておかしかったのですが、ほとんどの場合、風邪を治すためにぬるい湯に長く入るとか、寝際にゆっくり温まって寝るという流儀はいけません。大切なのは緊(ひきし)めなのです。サッと緊めて、汗がドンドン出て苦しいように入る。

緊まるという湯の温度はごく正常な大人の標準でいうと、四十二度が境で、四十二度から四十五度の間です。だから四十度、四十一度というのはぬる過ぎる。熱いとぬるいとの境は四十二度です。

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中毒している時は沸かしながら風呂に入った方がいいのですけれども、風邪の時にぬるい湯に沸かしながら入っていると、体がたるんでしまって病気の経過がズーッと長くなり、風邪そのものの経過法としては極めて悪い方法になる。だから風邪の時には前もって湯の温度を確かめてから入ることです。

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風邪を引いた時に食物を少し減らすというのはごくよいことです。水分の多いものを食べ、刺激性の食物を多くする。病気といえばすぐに刺激性の食物を慎むべしと考えていますが、風邪を引いた時には刺激性の多い物がよい。生姜でも唐辛子でも胡椒でも何でも構わない、胃袋が冷汗をかくくらい突っ込んでもいい。その方が経過を早くします。

しかし、そういうことよりも大切なのは胸椎五番の読みです。まず坐姿した相手の椎骨の位置を見て、風邪を引いているかどうかというごく簡単な位置異常と、圧痛点状況を見る。しかし椎骨の可動性を見るにはどうしても坐ってでは駄目で、伏臥して見なければなりません。

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風邪というのはたいてい自然に治るもので、風邪自体すでに治っていくはたらきですから、あまりいろいろなことをしないでいいのです。ただ大切なのは熱が出て発汗した場合で、風邪で発熱する場合にはかなり上がることがあります。(中略)

しかし熱が出たから慌てて冷やすなどとは滑稽である。むしろ後頭部を四十分間、温めるのがいいのです。そうすると発汗して、風邪が抜けると一緒に熱が下がります。

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ともかく脈(正常な脈は78~80で、それ以下だったら平温以下とみなし、80以上だったら平温以上とみなす)なり体温なりで平温以下の時が判るが、この平温以下の時期が風邪の経過の急処なのです。(中略)

風邪を引いても熱がある時は動いても一向に心配ないのです。風呂に入っても構わないのです。いや、入ることはいいことです。食い過ぎようが何をしようが構わないのです。ただし熱が一旦上がって、それから下がって平温以下になり、平温以下から平温に復するまでの間は安静の必要がある。

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この期間だけが安静の急処で、これを無事に通ると平温に戻ってきますから、もう後は自由です。また一旦平温以下になってから平温に戻る時に、一時期平温より少し高い時があるが、もうこの時は普通でいいのです。これはもう寝ている必要はない。

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ただこの時期(安静の急処)を上手に経過すると、残らないでスッキリするから、風邪を治すのにはどうしてもその時期の経過の仕方が大切になる。

これが風邪の問題で一番大切な処です。胸椎五番への愉気とか、いろいろの愉気法が一番効くのはこの時期なのです。その前は風邪になる体の傾向を正すだけなのです。風邪そのものを本当に効果あらしめて、体に風邪を引いた価値が発揮されるように経過するために必要なのは、この時期における胸椎五番の愉気なのです。熱が出ている間はあまり気を入れないでいい。「お風呂いいわね」と言ってケロっとしていればいいのです。それから治りかける頃になってポツポツ親切になって、相手が熱が下がって動き出しそうになった時から「静かに寝てなさい、起きてはいけません」と抑えてよく愉気をする。そうすると後がシャンとしてくる。意地が悪いようだけれども、悪い時というのは余分にいじると却って壊すのです。

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今までは皆、熱のある時だけは病気だと思って懸命にいろいろなことをやり、熱がなくなると慌てて動き出していた。それではせっかく風邪を引いても丈夫になるわけがない。丈夫になるように風邪を経過するには、平温以下の時に心身を弛めることと、その時の愉気が大切である。

風邪の効用はまた、すでに病気がある人は、それを機会に治ってしまうということです。上手に風邪を引くと古い病気が自然と治ります。

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ですからそういう適温の動きを知って、皆さんも自分にはちょうどこの湯(お風呂の)の温度がよいというのを計って、自分の健康状態を観る目安になさるということはとてもよいと思います。(中略)

体の中に疲労物質かあるほど、赤くなるまで入らないと適温に感じない。

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また四十五度前後で赤くなるのは、疲労した物質が体の中にたくさん溜まっているとか、感受性が鈍っていてふだんより少し高い温度を適温と感じるとかいうようなことがありますので、適温を知るには皮膚の変化というものを標準に見ていくのが正しい。体に何らかの故障があると、頭ては熱いとか、ちょうどよいとか思っているのに、体のある部分だけはそれを適温と認めない、つまり赤くならない場処があるのです。

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そういうように、風呂に入って出てきた状態を観察して、発赤していない部分をさらに追加するということが、足湯とか、脚湯とかの部分的入浴法が起こった元なのです。ところが「足湯をおやりなさい」「脚湯をやっておくとよい」と言うと、風呂に入ることを止めて足湯をするとか脚湯をするとかいうように受け取ってしまっている人が多いのですが、本当はそうではなくて、風呂に入った後始末としてそれを行うのです。そうすると風邪でも下痢てもすぐ良くなります。

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入浴というのは体を刺激して体のはたらきを亢め、また毒素を排泄させるようなはたらきをもっているのですから、むしろな体に異常のある時に入る必要がある。異常のない時は風呂に入るなどということは余分なことなのです。

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けれども風邪を引いた時に、或る部分を擦るということは非常によいのです。従って風呂の中で一部分熱く感じない処を刺激して平均させるという意味で、風呂の中でそこを擦るということは非常によい。

しかし石鹸をつけて洗うというのは、大便が毎日出ているのに浣腸しているようなものです。浣腸すれば全部丁寧に出るけれども、それを習慣として繰り返していると、浣腸しないと大便が出ないような体になることはご存知ですね。

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私などふだんあまり石鹸を使わないので、油やインクがついても、お湯の中で振るだけでとれてしまう。石鹸で体を洗ったなどということはここ四十年一回もない。顔も洗ったことがない。よく顔を水で洗うことを勧められますが、私はいつでもタオルで顔をペロッと拭いてすませてしまう。頭などもあまり洗ったこまがない。

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つまりできるだけ人間のもっている体の自然の力で暮らしていく。そういう自然の力が亢まって体は強くなってくる。