沢村貞子さんの著書です。私は沢村貞子さんを杉村春子さんだと勘違いしていた。その程度の理解力であります。

P10

口運がいい、というのは、金運、女運などからきた俗語らしいが、耳ざわりのいい言葉は、口果報。昔、ご殿女中だった母方の祖母にバナナをあげたら、

「まあまあ、こんな珍しいものがいただけるなんて、口果報だね、おいしいことホホホ」と右手で小さい口をかくしながら、おっとり笑ったものだった。

P18

こうして毎日書くようになった献立日記の、ほんとうの値打ちがわかったのは二年あまり、たってからだった。

仕事に疲れて、どうもいい案が浮かばない……去年の今頃はどんなものを食べていたのかしら……と二冊目の四月二十二日をめくってみると、

P19

献立に大切なのは、とり合わせではないかしら。今日は魚が食べたい、とか、肉にしよう……などと主役は早く決まっても、それを生かすのは、まわりの脇役である。好きなものばかり、と言っても、ひらめのお刺身に麻婆どうふ、グリンピースのポタージュなど添えられては、味蕾がとまどって喉につかえる。和風、洋風、中華風ーーそのときどきの素人なりの工夫を、この日記は気軽に思い出させてくれる。一年一年、齢とともに好みはすこしずつ変わってゆくが、とにかく、これは私にとって、料理用虎の巻ということになっている。

P71

蒸しご飯

ご飯は一度に沢山炊いた方がおいしいのに、我が家の夕飯は一合五杓だからむずかしい。ときには三合炊いて、残りご飯を翌日、蒸したりする。蒸し器の水が多すぎないこと、その水に一つまみの塩を入れること。冷たいご飯はよくほぐして蒸し器に入れ、蓋の下に乾いた布巾をはさみ、初め強火、煮立ったら弱火にしてゆっくり蒸しあげると、けっこう炊き立てのようなご飯が食べられる。

P77

好きなものも多すぎては、年寄りは持てあます。お裾分けはお福分け、お互いにあれこれ分け合う楽しさ……心が豊かになる。

P80

「ここのうちのご飯はうまい」と誉めて下さるときは、

炊き方のせいも多少はあるだろうけれど、それより、ご飯茶碗へのよそい方ではないかしら。丁度よくむらした炊きたてのご飯を、しゃもじでホンのすこしずつ、フンワリ盛るのが何より、いつだったか、おいしい、と評判の親子丼を売るお店では、ホークでご飯を丼へ盛っている、ときいた。ご飯も酸素をたっぷり吸うと、ぐっと味がよくなるらしい。そう言えば、昔、鉄のお釜から木のお櫃へご飯をうつすとき、「すこうしずつ、そっとだよ」と、よく母に注意された。茶碗によそえば、それでいいでしょう、というわけにはゆかないらしい。

P126

台所の布巾

きれいに洗いあげた食器を乾いた布巾でサッサと拭くのは気持ちがいい。わが家の布巾四十枚のうち、二十枚はいつも台所の引き出しにいれてある。使ったものはすぐ、足許のバケツ(半分ほどの水に少量の粉石鹸をいれておく。)につけて、翌日よく洗って干す。洗いすぎていたんだものは小さく切って使い捨て用に……。「汚れた布巾は病気のもとだよ」と昔の下町のおかみさんはうるさかった。

P134

母がそばで教えてくれた。

「使ったものは、すぐにきれいに洗っておかないと、今度ご飯を食べるとき困るからね」

母のあとかたづけは手早かった。キュッキュッと小さい音を立てながら洗っては拭き……固くしぼった雑巾で拭きこまれた板の間もいつも余分なもの一つなく……子供心にもスッキリと、気持がよかった。

いま、私が……どんなに忙しくても食事のあとかたづけだけはチャンとするのは……多分、あの、狭くて古くて、そのくせきれいな台所が眼の奥に焼きついているせいだと思う。

P135

なんとか上手に始末出来るようになったのは、たしかに段どり……手順のおかげである。

食事のあと……油気のない茶碗やさらり小鉢だけをまず、洗って片づける。それから、ほんのちよでも油のついたものは、使い捨ての小ぎれで丁寧拭く(洗いざらしの古い布巾を十センチ四方ほどに切っておくと、便利)。あとはたわしに磨き砂(石鹸、クレンザーなど)をつけ、ぬるま湯で、器の裏までよく洗えばサッパリと気持ちのいいこと請け合い。お鍋やフライパンは、最後にみがき砂をたっぷりおごって、熱めのお湯でサッと洗えばそれでおしまい……洗いすぎない方がいい。(使った油は、揚げものがすんだトタンに火を止めて、熱いうちに常用の油の缶にうつしてピッタリ蓋をしておけば酸化しない。新しい油を少々足すだけで、二、三回は使える)