軟酥観を初めて修するという同修の幾人かから、「心身が洗われたようだ」といった感想と共に若干の質問も寄せられたので、斯法を未だ修されたことのない地方の同修のことも鑑み、改めて解説紹介してみたい。

さて軟酥観は、彼の白隠禅師が京都洛北の仙人白幽子から授けられ、それで禅病を克服したとされており、現在も禅門に伝えられているものであるが、抑々は仙伝内観法の一つにして、白隠禅師の例のように却病法としての効果も見逃せないものがあるが、本来は煉丹の玄法として用意されたものである。

その基本的なやり方は、姿勢は立位、坐位、臥位或いは椅子に腰掛けた格好の何れでも可能であるが、強力な観念力、統覚力を必要とするものだけに、周囲に騒音の少ない静かな場所を選んで行うことが望まれる。ここでは仙坐三法の何れかで行うことを念頭に置いて解説するが、まず暫時調息した後、鴨卵大の金卵(これを「軟酥丸」という)が天上より降りてきて頭上で静止し、それが次第に溶けて流れ落ち(或いはパックリ割れて、と観念してもよい)、眩いばかりの光と香気を四方に放ちながら己が脳天より溶け入り、脳髄、顔面、項、更には両肩から両腕、また胸、背、腹部(五臓六腑)と全身を金色に染めながら流れ下り、腰部、臀部、足部に至って己身を黄金一色に化せしめて終わるものであるが、金液が流れ下るのに合わせて種々の違和や煩悶も、悉く洗い流されてゆくと観念する。これを一回、二回と全身が黄金色に化してしまうまで繰り返し行う。

やり方としては以上の如くであるが、これが自らの観念力に依るものであるだけに、その観念力、統覚力が強くなってこなければ、「全身が黄金色に化する」と言われても、最初はなかなかそういかないばかりか、肝腎の金色そのものが想念の中に浮かんでこない、定着しないということだってあるだろうから、それを補うべくいくつかの方法を次に挙げておく。

まず一つ目であるが、これは常日頃心掛けていなければならないことであるが、金色に親しむというか、金色の物を身に付けるなり、身近に置くなりして、金色というものが想念の中に直ちに浮かぶようにしておく、ということである。軟酥観に取り組むに当たって、金色が観念できないとか、出来ても直ぐに消えてしまうというのでは行果の挙がりようもないから、初修の人はまずこのことから始めることが先決であろう。思い起こせば私も最初の頃は、この金色が定着せずにあれこれ腐心したもので、それで万年筆や腕時計を皆な金色のものに変え、兎に角金色に親しむことから始めたものである。更には、先師の机上にさり気なく置いてあった金杯も、今にして思えば、そういう目的あってのものだったかも知れない。

二つ目は金卵の大きさであるが、伝えられるままの鴨卵大という大きさは、現実的にはよく目にする鶏の卵と大差ない大きさであるから、そんな小さなもので全身を金色に化するということが出来るのだろうかという思いが邪魔をして、なかなかな文字通りの金一色とはなり難いから、これに習熟するまでは寧ろ大き目の卵を観念して行うことである。現実に即するなら駝鳥の卵あたりが最も大きな卵であろうから、暫くはその位の大きさを観念して行うことが、「(全身を)金色に化す」というところにより早く到達できるかと思われる。これも斯法に慣れてくれば(=観念力が強くなってくれば)、鴨卵大であろうと、もっと小さな卵であろうと、何ら問題なく出来るようにもなるから、それに近づくまでの一段階として上のやり方を試してみていただきたい。

そして三つ目は観念力をより使い易くするための手助けとして香水、またはそれに類したものを活用するのである。これは、私自身が初修の頃に浄女から推められたやり方で、斯法を行う直前に、鼻緒と双方の耳朶(耳たぶ)に香水を付けておけば、顔の周辺に漂う仄かな花の香りが雑念を遠避け、斯法に集中する助けとなるものである。但し、この香りは自分自身が心地よく感ぜられるものでなければならず、また余り強過ぎても反って観念の邪魔になるから、実際に用いる際には極く少量とし、淡く微かに香る程度で十分である。当時、入連して間もなく観念力も乏しかった私には、軟酥観は至難の仙法であったが、恐らくはそれを見兼ねて浄女は香水の小瓶を下さったものと思うが、その花の香りは大いに観念力を後押しし、後年になっても妄雑の駆逐に役立ったことを付記しておきたい。

先に紹介した軟酥観は正法ではあるが、それでも初修の同修にとっては「鴨卵大の金卵が天上より降りてきて頭上で静止する」というところがなかなかな観念しづらいようで、「いくらやっても(観念しても)金卵が容易に降りてきません」と漏らされる同修もおられることから、今回はその辺りの観念の使い方をより具体的にすべく一工夫を加えた二通りのやり方を紹介したいと思う。

ところで軟酥観の何が難しいと言って、上にも挙げたように金卵そのものを観念するということが、最初はなかなか思うようにはゆかないもので、それは一つにはそのこと(金卵、金色)を観念するだけの観念力、統覚力が備わっていないこともあろうが、さりとて、ただ闇雲にやっていても空しさだけが募り、徒らに時間ばかりを空費することさえ珍しいことではない(勿論、これはこれで後になってみれば、それが軟酥観の、そして観念力、統覚力を駆使する基礎となるものであることが自覚でき、決して無駄にはならないが………)。そこで、その点を補う工夫の一つ目として紹介したいのは、金卵(軟酥丸)が天上より降りてくるのをただ待つのではなく、少しく発想を転換して、自分が坐っている目の前に軟酥丸があると仮定(観念)し、それを此方から手を伸ばして積極的に迎えに行く、というやり方である。

これを詳しく解説するなら、まず仙坐して暫時調息するところは前回解説した正法に同じである。そうやって心身の調和が取れたところで、自分が坐っている目の前に金卵があることを観念する(因みに金卵の大きさは、自身が金色に染まることを観念し易いようにやや大き目がよい)。次に徐ろに両手を差し延べてその金卵に手を添え、それをゆっくりと持ち上げて頭上へ持ってゆき、(金卵の)坐りがいいかどうかを確認しながらしっかりと頭頂に固定(=安定)させたところで静かに両手を離し、両手を再びゆっくりと降ろしてゆき両膝の上に置く。ここまでが前段階であるが、改めて申すまでもなく、この間は当然ながら閉眼で行うものであり、(仮にちょっとでも眼を開けてしまったら、金卵も何もかも消え失せてしまう)、そして両手の添え方は実際に金卵を抱えるような手つきで、つまり、双方の手指をやや開き加減にして互いに向かい合わせるようにして持ってゆかねばならず、然すれば何もない筈のところに或る種の感触(=実感)が芽生え、それに伴い金卵に添えた両掌に温かささえ感じてくるようになり、それは頭頂に金卵を置いた際にも同様に確かな重さを感じるようにもなるから、単に小手先だけの軟酥観とならぬよう、心を込め、一意専修することが肝要である。上に「何もない筈のところ」とは言ったが、そこには行ずる者の思い(念)が、観念が凝集されているから、それが確かな重みや存在感として感じられるのであり、それは不思議な、といった感覚であるかも知れないが、それが自らの観念力や統覚力を最大限に駆使して行うところの仙伝内観法の醍醐味でもあるのである。

それより後段に入っての観念の使い方は前回解説したやり方と一緒で、頭頂で溶けた、或いはパックリと割れた金卵が眩いばかりの光と香気を周囲に放ちながら脳天より己身に流れ入り、身的な違和や心的な煩悶も共に洗い流しながら全身を金色に化す、というものである。

ここに紹介したやり方も、金卵を、そして金色を自らの観念力で以て観念しなければならない、という点では前回紹介したやり方と同様である。がしかし、遥か天上にある金卵を観念するのに比べ、自分の目の前にある金卵を観念する方がどんなに観念し易いか知れず、しかも観念力がまだまだ伴わない初修の頃は、冒頭に紹介したように「いくら観念しても(いくら待っても)金卵が降りてこない」などということにもなり兼ねないから、斯法に取り組むに当たっては、より観念し易いやり方を選ぶことは必要最低限のことでもあるのである。

なお、このやり方とてやはりそれなりの観念力を要求されるものには違いないから、このやり方に取り組む前に、或いはそれと併行して、実際に両手で以て、しかも同じような動作で何かを頭頂に乗せてみるなりして、その重さや頭頂に乗った感触等を実感しておくことが大切である。そして、出来れば乗せるものは自分が観念する金卵の大きさや重さに近いものが望ましく、それを体感することで実際の軟酥観がより具体的になるは明らかであるから、種々試してみていただきたいものである。

もう一つのやり方は、前二者が兎にも角にも金卵というものを自らの観念力によって生み出し作り出すものであったのに対し、今回紹介するものは、自分の内元気を用いて金卵を生み出すというやり方である。

さて、その具体的なやり方であるが、まず最初に暫時調息することで心気を澄ませておくところは前二者に同じである。それより閉眼のまま徐に双方の掌を胸の前で向かい合わせ、その掌に全神経を集中させていると………ここは右掌の気を左掌で感じとるようにし、また左掌の気を右掌で感じとるようにする、と言ってもいい。そうやって暫くやっていると、次第に双方の掌が温かくなり、また向かい合わせているそれぞれの指先がピリピリしてくるから、次は双方の掌を少しずつ近づけたり離したりしながら、最もしっくりくるところを(その距離)を探るのである。つまり、一口に双方の掌を向かい合わせるとは言っても、その間の距離の遠近によって掌や指先に感じる温かさやピリピリ感は微妙に違ってくるから、それを近づけたり離したりすることを繰り返しながら、自分が最もしっくりくるところ、これを言い換えれば、最も温かく感じるところを探し出す、ということである。そうやって見たかったものが自分自身の内元気によって生み出したところの軟酥丸であるから、あとは前回解説したやり方に同じく、それをゆっくりと頭上にもって行って頭頂に置いて安定させ、それを観念力で以て割り、或いは溶かし流すことで全身を黄金色に化するというものである。

この双方の掌を向かい合わせる、というところは、その格好だけを見るならまさに抱一式のそれと同様であるが、最も難しく、そして習熟を要するところは、そうやって向かい合わせた双方の掌が最もしっくりくるところ、すなわち最も気の通りがいいところ、掌に温かく感じられる距離を見つけ出すことであるから、上にも言ったように双方の掌を近づけたり離したり、或いはその掌を少しく右に左に回転させたりしながら、その最適な距離を探り出すことである。勿論、斯法に取り組み始めた当初は、左右の掌を少々近づけても離してもその違いがわからないとか、或いは掌や指先に殆どと言っていいほど温かさを感じない、といったこともあるだろうから、只管精修することで上に言うところの要領の一つひとつを自得してゆくことである。

なお、最もしっくりくる双方の掌の距離というものは、たとえば定規で測って何センチと定められるようなものではなく、それは何処までもそれを行ずる人の内元気の大きさに依るものであるから、当然個人差はあるし、加えて同じ行者の場合であってもその日によって、または朝の起きがけとか一日の仕事を終えてからの就寝前といった時間によって、一日のうちでもその距離は微妙に異なってくるから、ここで探り出す距離というものは、あくまでもそれを行じる時点での最もしっくりくる距離ということであって、そうやって生み出す軟酥丸なればこそ、それは自分に固有のものであると同時に、自分自身に最も相応しい軟酥丸ということが言えるのである。その時々に微妙に異なる軟酥丸なればこそ、それはまさしく生き物であり、それを探り出しつつ行う軟酥観こそ最も身近で、行者を煉金丹の高みへと誘う直接法となり得るのである。

この双方の掌を向かい合わせて最もしっくりくる(=最も温かい)距離ということで更に言うなら、双方の掌を離しすぎればそれが感じられなくなる、ということは誰でも分かることかと思うが、しかし反対にこれをくっ付けすぎてもよくなく、温かく感じられるどころか反って冷っぽくさえ感じられるものであるから、やはりここは最適の距離というものを見出し得ねば、最もしっくりくるとは言い難い。ではその最適の距離とは何処かと言えば、それは左右の掌から発する内元気の丁度触れ合うところ、つまり右掌から発する内元気と左掌から発する内元気の接点、その境目ということが言えるから、それを見つけ出すべく修煉あると共に、己が内なる元気に対しての親しみと言うか、それを常に身近に感じられるだけの自覚と感性が不可欠となろう。

ところで、この自らの内元気により軟酥丸を生み出すというやり方は、実は上に触れた抱一式の他、太極拳法や五禽舞法、易筋経十二勢などの中にその要訣は散りばめられているもので、よってそれらの行法を真剣に修してさえいれば、ここに紹介したやり方は然程難しいものでも、突拍子もないものでもないことが、実感、納得できるかと思う。

以上、三者三様の感のある軟酥観、精修以て煉丹の資となさん哉。