昨日、ズームで瞑想箱庭療法の研究会がありました。

当初森田療法の研究会で、森田正馬の著書を読むことが多かったのですが、いつの間にか瞑想箱庭療法が主体となっています。まあ、瞑想箱庭療法は森田療法のエッセンスも含まれていますので、やっていることが森田療法に矛盾するものではありません。

 

今回は、瞑想箱庭療法に「解釈」は重要視されないということが話題になりました。

ユング式の箱庭療法を知っている人であれば、出来上がった箱庭をみて、どうしても「解釈」をしたくなる欲求が出てきます。

「解釈」とは、アイテムの置かれた位置や方向、アイテムの多さ少なさ、アイテムの内容などから、患者さんの内面を知ろうとすることとなりますかね。

 

瞑想箱庭療法では、この「解釈」にとらわれません。それこそ森田療法でいう「とらわれ」からの離脱ということになりましょうか。「解釈」という作業はどうしても頭を使う行動であり、その行動にこだわってしまいがちで、直感や感覚が追いやられてしまいがちです。

 

師匠は、

「解釈という行為は、感覚体験の一部であるので、瞑想箱庭療法において、解釈そのものが否定されることはない」

 

と述べていました。

 

確かに曼荼羅(中心化)は症例検討会の時にしばしば話題になりますからね。