甘い囁きに耳は、弱い。
蛇は樹上からイブの耳に囁き、唆した。弱いところをついたのである。耳は性感帯であり、災いを招きよせるよわい器官であろう、か。三島由紀夫は女性の性的エクスタシーを「音楽」と名指したが、的を得ていよう。
か、かよわい 鯨の耳を噛んでみる 坪内稔典
耳おそろし眠りの外で立っている 折笠美秋
稔典の「耳」は、そんなイブの耳の弱点を十二分に心得ているのかもしれない。
鯨の耳に耳朶はない。
ヒトやダンボのような耳が身体から飛び出ていたりはしないのだ。眼のすぐ後ろに穴もない耳があるだけらしいから、「噛む」ことはできない。「眠りの外で立つ」ような芸当もできない。
だから稔典の、鯨の耳を噛んでみるという句はまったくの空言なのだ。空言を愉しんでいるのだ。「か、かよわい」などという形容でもっともらしく演出しながらも、である。そのあたりがこの句の肝なのであろうが、読み手は騙された訳ではない。そもそも鯨の耳の所在は、不明なのだ。無い、のではない。
外からはわかりづらいという意味で、不明なのだ。
鯨の年齢は耳垢で測るらしい。
検査捕鯨では、必ず、この耳垢栓を採取する。噛んだらガリリと音がするのかもしれない。が、齧ったことがないので本当のところはわからない。
稔典の「耳」が凹の「耳」であるのに対して、美秋の「耳」は凸で、身体から自立し、「立っている」のであるが、わたしの身体のパーツでありながらも、自立している。場合によっては、眠っている身体から歩み去ってしまう魂胆や動機を隠し持っている、そんな耳なのだ。汎神論的な世界観がこの「耳」には感じられるのだが、しかし、<杉林歩きはじめた杉から死ぬ>という句をものにしている美秋は汎神論的なパースペクティブを持ちながらも、そのパースペクティブのなかへと歩み入ることには二の足を踏む。近代的な合理主義を捨てることができないのだ。多くの現代人はオリガサのように、踏みとどまる。そこから21世紀のぼくらは、どのような道に進みうるのだろう、か。
耳の本性を、もう少しつきつめて考えてみるべきなのかもしれない。宇宙史というスパンを以って、である。
温暖化が進めば季語の土台は崩れる。そのあたりを見据えてコスモロジカルでオントロギッシュな視点を取り戻すのだ、といったら大袈裟であろうか。「原始感覚を取り戻す」(河原枇杷男)とは、そういうことなのだと理解しているが、天野不争という江戸期末期から明治にかけての俳人の句に、
松風を気つかう耳やほととぎす
があり、しばらく、奇妙な感慨に囚われたことがあった。
不争は、甲州谷村藩境村の人で伴蔵を名乗ったが、かれの父親は江川英龍や大場久八とも親交があった天野海蔵であり、豪商であった。
久八は吉田の人斬り長兵衛の許で渡世修行を積んでいる。竹居安五郎も同じであった。そんなふたりと交友をもっていた海蔵は広い渡世人人脈を持っていたはずであり、そのネットワークで流通していた情報の在り方は再考すべきであろう。
「耳」のネットワークを、である。
ドモ安こと竹居安五郎が島抜けしたときには久八とともにその逃走劇を手助けしているが、役人たちの目をすりぬけ、逃亡犯の幇助をした時、警戒の「耳」はするどく立っていたことであろう。
もちろん、美秋の「耳」のオントロギッシュな立ち方とは異なる犯罪者の「耳」の立ち方ではあったであろうが。
江川英龍の依頼で品川沖のお台場建設を託った時には久八と共に荒くれ人足たちを仕切り、お台場を完成させるために尽力している。
明治33年に87歳で他界しているが、清濁併せ呑む人物であり、造り酒屋や廻船問屋を営んだり、社会事業や慈善事業にも積極的に勤しんでいる。
倅の不争も広い俳諧人脈を持ち、活躍していたが、逆縁で、明治19年に47歳で没している。
『峡中俳家列傳』には「菩提寺なる廣徳院の住持大森香芸に従つて俳諧を学ん」だ不争の許には「慕ふて來るの俳客亦は行脚して且過する雲水の徒常に其の蹤を絶たず、食客三千人の盛無しとするも、また却々に盛なるものであった」とある。多くの俳人たちが不争を慕って訪れたことが記されているが、信州の花國という俳人などは二十年以上も不争邸で暮らし、家人のような状態で、そこで永眠している。
父、天野海蔵が築いた財力があったからこそ可能だったのであろうが、不争の人柄にもおおいに依ったであろう。
さて、不争の掲揚句であるが、芭蕉への挨拶句であろう。
天和3年、大火で深川の芭蕉庵を焼け出された芭蕉が谷村藩の家老の許に身を寄せ、当地で<馬ぼくぼく我をゑに見る夏野かな>などの句を詠んだといわれているが、同年には<清く聞ン耳に香焼いて郭公>などの句も詠んでいると云われている。
「ン」という撥音や「耳に香焼いて」という奇妙な措辞に閉口するが、この句について岩波の『芭蕉俳句集』の注には「泊船。芭蕉は貞享元年の部に出す」とあり、角川『芭蕉全集』には「耳に名香をたきしめて郭公の声を聞こうという意。なお奇趣をねらった談林調の句である」と記されている。
角川ソフィア文庫の『芭蕉全句集』の解説には「『耳に香焼て』というありえない設定を通して、時鳥に対する強い愛着心を示したもの」と記されている。
どれも一句の評価に立ち入るのを抑えている。
小学館『松尾芭蕉集』には、香を焚くのプレテクストが足利義政が千鳥の声を聞きに行くのに、香をたいて出かけたという故事が下敷きになっていることが記されているが、このあたりを山本健吉の『芭蕉全発句』では、もう少し丁寧に説明していて、「この義政の故事は芭蕉も知っていたと思う。一期一会として、最高の時間と空間を作り出すことに生きがいを見出した、中世的な美意識の中に生きていた。時鳥の一声という最高の瞬間を、名香を炷(た)くことでさらに純化し浄化しようとする生の態度が、ここには見えている。だが、句そのものは理に落ちている」と綴っている。
たしかに、説明されれば、「理に落ちている」ことは理解できる。
だが、不争の時代にはどのように捉えられていたのであろう。
そのあたりが気にかかる。
全集の解説者や学者たちは「耳」に秘められたIssueに気づいていないのだろうが、少なくとも不争は気づいていた。
不争の許を訪れた三千人の食客のなかには、谷村での芭蕉仮寓について様々な事が語られたことであろう。掲揚句の「耳に香焼て」の故事が山口素堂の『とくとく句合』の判詞にあることなども『芭蕉句選年考』などを引用せずに心得ていたであろう当時の俳人たちの議論が、さて、どのようなものであったのかは分からないが、不争が<松風を気つかう耳やほととぎす>を下ろしたのは、あきらかに、<清く聞ン耳に香焼いて郭公>の句に対するレスポンスであり、芭蕉への憧憬であったことは疑いないだろう。が、それ以上に、「耳」に潜む「怖さ」や「奥行」をも掬い上げているのかもしれない。
谷村の不争邸を訪れた菊守園見外は、
夜ごと見る山さまざまや秋の月
鎌留の山荒々し秋の月
の句を詠んでいる。
深山に囲まれた夜には「眼」以上に「耳」が鋭さを増す。
見外の句は視覚的である。
しかし、山々を望みながらも、山々の沈黙や樹々を渡って行く風を異様な聴力で聴いているのである。
夜の山行では背後に響いた幽かな音にも魑魅魍魎の気配を感じてしまったりする。異様な敏感さに囚われるのである。
不争の句、表面上は穏やかだが、そんな「耳」の感受性への経験が揺曳してもいよう。<松風を気つかう耳やほととぎす>、耳は、松籟を「気づか」っていただけなのであろうか。
『三冊子』には有名な「松のことは松に習え」の芭蕉の言がある。