機会があれば飲む、機会がなくとも飲む
という言葉は『ドン・キホーテ』を書いたミゲル・デ・セルバンテスのことば、
機会があれば飲む、時には機会がなくとも飲む
を捩ったものだけれど、「時には」という連語は、必要ない。そう、思った。その方が呑兵衛にとってはすっきりする。いつだってスタンバイなのだ。
中世の騎士物語を読みすぎて現実と物語の区別がつかなくなってしまったドン・キホーテは、方々でトラブルを起こす。そんなトラブルメーカーはいつだって酩酊状態、酒なんか飲んでいなくても酔っていた。
耽溺するとはそういうことだろう。
「時には」などと限定してしまうと、飲んでいないときもあることになる。
そんなことでは、風車に立ち向かえない。
だから、
「時には」は必要ないのだ。かなり極私的な見解、いや、思い込みなのかもしれないけれど、ここは譲れない。
作者のセルバンテスは何度も投獄された。長い囚人生活を送った。『ドン・キホーテ』も監獄の中で構想されたのだという。
で、思った。
『死霊』の作者・埴谷雄高も、戦前、豊多摩刑務所に収監されていたことがあり、そのとき、「一時的に発狂したのではないか」と評論家の秋山駿が発言していたけれど、セルバンテスの囚人生活とダブった。
想起すると、「夢魔」は宇宙の涯てからでも一瞬でやってくることを埴谷は口にしていたけれど、壁の奥からやってきた「夢魔」を幻視した埴谷がいたということなのかもしれない。「虚体」概念は、埴谷の重要な主題であるけれど、それは未出現宇宙であり、夢魔であり、のっぺらぼうの発展形でもあった。
壁の奥からやってきた。
今とは違う衛生環境、陰湿で暴力的な取り調べに、長時間、苛まれていると、なるほど、「壁の向こうからやってくる幻覚にとっつかまり、現実と幻想の区別がつかなくなったりすることもあるのかもしれない。
痩せ驢馬のロシナンテに乗ったドン・キホーテ・デ・ラ・マンチョも、サンチョパンサ(太鼓腹という意味)も、囚人のセルバンテスの許へ、壁の向こうからやってきたのかもしれない。
アイスキュロス、ソフォクレス、エウリピデスなどのギリシャ悲劇と、仏蘭西のコルネイユやラシーヌ、西班牙の『ドン・キホーテ』、英国の『ハムレット』などの17世紀悲劇との違いは、前者が「運命」に翻弄される人間を描き、後者は「意志」を貫くことでカタストロフに追い込まれる人間を描いているのだ、と西洋文芸思想史の授業で習った覚えがある。
ソルボンヌ流の解釈だという。
それによれば、ドン・キホーテは狂ったのではなく、意志を貫いたことで常識からズレてしまった、ということになるのだろう。
永田耕衣に,
恋猫の恋する猫で押し通す
という句があったけれど、「意志」を「押し通す」ことは、カタストロフとまではいかなくても、たしかに争いやいざこざを惹起することがある。
とまれかくまれ・・・呑む・・・機会があれば呑む、機会がなくとも呑む、のぢゃ。
余談だけれど、ギリシャ悲劇を意味する「トラゴーディア」は「山羊の歌」を意味する。中原中也の第一詩集のタイトルも『山羊の歌』だった。「悲劇」を想定しての命名だったのだろう。
、
汚れちまったかなしみに
今日も小雪のふりかかる
そんな日は、機会がなくても「飲みたい」。詩人でなくとも、だ。