山の上の水族館
東日本大震災の発生から3週間・・・。
今回の震災の影響で、愛煙家の妹と甥っ子、姪っ子が実家に帰省してきています。
一年ぶりの甥っ子との再会。
初めて出逢う姪っ子。
ふたりとも、よく愛煙家に懐いてくれてます。
特別な存在だなぁ~と実感。
これからのふたりの成長が、愉しみでなりません。
そんなふたりと休日を利用して、屋島山頂にある新屋島水族館に・・・。
愛煙家が、買ってあげたおみやげでゴーカイジャーに変身してしまってます。
垣がひくうて
朝顔は、
どこへすがろと
さがしてる。
西も東も
みんなみて、
さがしあぐねて
かんがへる。
それでも
お日さまこひしうて、
けふも一寸
また伸びる。
伸びろ、朝顔、
まつすぐに、
納屋のひさしが
もう近い。
(金子 みすゞ 詩集より)
北陸の旅⑥ 五箇山
金沢を後にして・・・。
次なる目的地である岐阜の白川郷を訪れる途中に・・・。
富山の五箇山に立ち寄りました。
この地は、1183年に倶利伽羅峠の戦い(くりからとうげのたたかい)で木曽義仲(源義仲)と平維盛(清盛の孫)が戦い・・・。
義仲が有名な火牛の戦法で平家に大勝した際、その残党たちがこの五箇山に落人として逃げ隠れたと伝えられています。
また、『五箇山誌』によれば・・・。
「五箇山の文化は吉野朝武士の入籠によって開拓され、五箇山の有史は吉野朝からである。現在の五箇山住民は、多分この時代からの落人の末葉である。養蚕・和紙製紙は吉野朝遺臣によって始められ、五箇山へ仏教が入って来たのは吉野朝皇子、天台座主宗良親王によってである。」という南北朝動乱期に吉野朝遺臣によってこの地が形成されたという説もあるそうです。
元来、この地は・・・。
白山信仰による天台宗系密教の地域であったそうですが・・・。
浄土真宗本願寺八世「蓮如」によって、北陸一体が一向宗の勢力となりこの地域も浄土真宗に改宗したそうです。
北陸一帯の地名に「経塚」という地名がいまも・・・残っているのですが、これは天台宗系のお経を埋めた地という意味があるそうです。
こちらは、村上家住宅です(-。-)y-゜゜゜
約400年前に建築されているもので、この後訪れる白川郷同様に古き日本の姿が残ってました。
江戸時代・・・。
この地は、加賀藩の流刑地として罪人が送られて来ていたそうです。
寛文7年から明治維新までの約200年間・・・実に150余人もこの地に流されたそうです。
加賀藩は、流刑人の逃亡を防ぐため五箇山に流れる庄川に橋をかけさせず一人では往来できない篭の渡しを使わせていて・・・。
流刑小屋には集落内に限って出歩ける平小屋、一歩も外にでられないお縮小屋、小屋の中に更に狭い檻を作って閉じ込める禁錮の三種類があり・・・。
お縮小屋と禁錮は牢番が食事を柱の穴から差し入れるだけであったそうです。
加賀騒動の大槻伝蔵もこの地に流されたそうです(-。-)y-゜゜゜
五箇山から遠望した山々には・・・早くも冬将軍の到来を感じさせられました(-。-)y-゜゜゜
こちらは、白山宮本殿です(-。-)y-゜゜゜
この白山宮は泰澄大師が人形山頂に創建したものを、後に現在の地に移したものだと伝えられています。
棟札によると文亀2年(1502)の建立だそうです。
一説によると・・・。
山頂に建立した建物を平安末期の1125年(天治2年)に旧平村 上梨集落の中心部に移築したとも云われています。
北陸の旅⑤ 旧制第四高等学校
兼六園散策の延長で、傍にある旧制第四高等学校もぶらりと立ち寄ってみました(-。-)y-゜゜゜
1886年、帝国大学令により、金沢に石川県専門学校(前身は加賀藩藩校明倫堂)を母体とする高等中学校が置かれることに・・・。
帝都の旧制一高、京都の三高に次いで第四高等中学校の設立となったそうです。
旧制第四高等学校の卒業者には、政界・財界・学術文化界の大物が多く・・・。
愛煙家の好きな作家のひとりである井上靖もそのひとりです(-。-)y-゜゜゜
旧制第四高等学校のレンガと紅葉のコントラストは、この時期ならではの美しい眺めでした。
2日目の昼食は、金沢名物治部煮を含んだ2500円の金沢御膳を堪能しました(≧∇≦)b































