北陸の旅④ 兼六園
2日目は、更に北上をして金沢の兼六園を訪れました(-。-)y-゜゜゜
岡山の後楽園、水戸の偕楽園と並んで、日本三名園のひとつと数えられる兼六園は・・・。
江戸時代、加賀藩の5代藩主前田綱紀公が延宝4年に「蓮池亭(れんちてい)」を造り、その庭を「蓮池庭(れんちてい)」と呼んだのが始まりとされています。
後の13代藩主前田斉泰公の時代、現在のものにほぼ近い形として兼六園と云う名称がつけられたそうです。
宋代の詩人・李格非が『洛陽名園記』の中で、中国洛陽の名園「湖園」を謳った「宏大・幽邃・人力・蒼古・水泉・眺望の六つを兼ね備える名園」に倣い、文政5年に白川楽翁公(松平定信)によって兼六園という名称が命名されたそうです。
今回は、説明はここまでにして・・・。
秋の兼六園をお楽しみください(-。-)y-゜゜゜
北陸の旅③ 東尋坊
嘗て、平泉寺白山神社(へいせんじはくさんじんじゃ)には数千人という僧侶がいたそうです。
(余談であるが、この平泉寺白山神社は、養老元年、泰澄によって開かれ・・・。
中世以降、延暦寺の勢力下に入り、霊応山平泉寺として知られるようになる。
白山信仰の越前側の拠点として、最盛期には48社36堂6千坊、僧兵8千人の巨大な宗教都市を形成した場所でもあります。)
その中にいた東尋坊という怪力を頼りに、民に対して悪事の限りをつくした僧が・・・。
その東尋坊が暴れ出すと手がつけられず、誰も彼を押さえることができず・・・。
平泉寺の僧侶は困り果てていたとか。
在る時、東尋坊はある美しい姫君に心を奪われ、恋敵である真柄覚念(まがらかくねん)という僧と激しくいがみ合ったそうです。
寿永元年(1182)四月五日、平泉寺の僧たちが相談し海辺見物に東尋坊を誘い出し・・・。
一同が高い岩壁から海を見下ろせるその場所へ着くと、早速、岩の上に腰掛けて酒盛りが始まり その日は天気も良く、眺めの良い景色も手伝ってか、皆次第に酒がすすみその内、東尋坊も酒に酔って横になり、 うとうとと眠り始めた。
一同は目配せをし、真柄覚念に合図を送り。
真柄覚念は、ここぞとばかりに東尋坊を絶壁の上から海へ突き落とした。
東尋坊が波間に沈むやいなや、それまで太陽の輝いていた空は、たちまち黒い雲が渦を巻きつつ起こり青い空を黒く染め、 にわかに豪雨と雷が大地を打ち、大地は激しく震え、東尋坊の怨念がついには自分を殺した真柄覚念をもその絶壁の底へと 吸い込んでいった。
以来、毎年東尋坊が落とされた四月五日の前後には烈しい風が吹き、海水が濁り、荒波が立ち、雷雨は西に起こり 東を尋ねて平泉寺に向ったという。
という、逸話のように荒々しい光景を想像していたのですが・・・。
その日は、とても穏やかな海でした(((;-д- )=3ハァハァ
しかし・・・夕暮れ時の美しい光景を目にすることができました( ● ´ ー ` ● )
その夜は、東尋坊傍の宿で1泊。
キ・キ・キ・キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!越前蟹を堪能しました(-。-)y-゜゜゜
北陸の旅① 永平寺
先月、北陸で紅葉を楽しんできました。
今回から、数回にわけて北陸の秋を・・・永平寺、東尋坊、兼六園、白川郷を紹介して行きたいと思います。
前回同様に、BLOGの更新があまりされないかもしれませんが・・・。
ご了承ください((((;゚Д゚)))ガクガクブルブル
北陸の旅① 永平寺
愛煙家にとっては、北陸は未踏の地でした(-。-)y-゜゜゜
ただ、数年前に訪れた鎌倉の円覚寺以降、禅寺の独特の雰囲気が好きで・・・。
永平寺は、いつか訪れたい場所のひとつでした。
数年前・・・。
『永平寺の精進料理 七六〇年受け継がれた健康の智慧を家庭でいただく 』 (学習研究社刊行)と云う本が話題を呼びましたが、永平寺は山奥にひっそりとあるお寺でした(-。-)y-゜゜゜
道元が旧仏教側の迫害を避け新たな道場を築くため、信徒の1人であった越前國の土豪・波多野義重の請いにより、寛元元年に吉峰寺へ招かれました。
余談であるが、吉峰寺は白山信仰に関連する天台寺院です。
ここでも、日吉大社のとき同様に、天台宗と白山信仰の繋がりででています(-。-)y-゜゜゜
道元はここでひと冬を過ごし、翌年に吉峰寺よりも里に近い土地に傘松峰大佛寺(さんしょうほうだいぶつじ)を建立し、これが永平寺の開創であると伝えられています。
寛元4年に山号寺号を吉祥山永平寺と改めています。
寺号の由来は中国に初めて仏法が伝来した後漢の明帝のときの元号「永平」から来ているそうです。
後漢の永平と云えば・・・、「虎穴に入らずんば虎子を得ず」で有名な西域を遠征した名将班超が活躍した時代ですね。
こちらは、傘松閣(さんしょうかく) です(-。-)y-゜゜゜
昭和5年(1930年)に建築され、222畳敷きの大広間と川合玉堂、伊東深水など144名の南画の大家によって描かれた天井画は素晴しい光景でした( ゚Д゚)ポカーン
こちらは、今風に云えば・・・パワースポットのひとつの大すりこぎ棒です(-。-)y-゜゜゜
触ると料理が上達するとか。
永平寺そばには、この大すりこぎ棒に因んで「すりこぎ羊羹」というお土産も売っていました。
永平寺は、斜面に造られており・・・こちらの階段状の回廊も特色のひとつです。
承陽殿などにある久我龍胆の紋は、道元の生家である久我源氏の御紋だそうです(-。-)y-゜゜゜
あと、この永平寺には古来より七不思議と呼ばれるものが伝わっており・・・。
詳しくは、永平寺のサイトで紹介されているので興味がある方はそちらをみてください(-。-)y-゜゜゜
最後に・・・永平寺の秋をお送りいたします(-。-)y-゜゜゜
比叡山の旅③ 日吉大社
延暦寺から下山して日吉大社に参拝することに。
平安京の遷都により、日吉大社が京の鬼門に当たることから、鬼門除け・災難除けの社として崇敬されるようになり・・・。
最澄が比叡山に延暦寺を建立してからは、比叡山の地主神でもある日吉大社を延暦寺の守護神として崇敬したそうです。
この時に、中国の天台宗の本山である天台山国清寺にならって山王権現と呼ばれるようになったそうです。
比叡山の焼討の時に、この日吉大社も焼失したそうですが・・・。
信長の死後、太閤秀吉によって復興。
一説には、秀吉の幼名を「日吉丸」といい、あだ名が「猿」であることから、太閤が日吉大社を特別な神社と考えたためだと伝えられています。
ちなみに、この日吉大社は猿と神の使いとして崇拝しているそうです。
日吉大社西本宮本殿は、天正14年に復興されたもので、慶長年間に改造されたそうです。
こちらは、日吉大社摂社宇佐宮本殿です。
慶長三年に建造されたものだそうです。
宇佐宮は、田心姫神(タキリビメ)を祀っています。
余談ですが、この田心姫神は、宗像三女神の一柱であり・・・。
『古事記』では多紀理毘売命、『日本書記』では田心姫(タゴリヒメ)・田霧姫と記され、別名奥津島比売命(オキツシマヒメ)とも呼ばれている女神です。
アマテラスとスサノオの誓約で、アマテラスがスサノオの持つ剣を譲り受けて宗像三女神を生み、スサノオの物実から生まれたのでスサノオの子であると宣言されたと。
この三女神は宗像の民が信仰している神であると記されています。
こちらは、日吉大社摂社白山姫神社本殿です。
宇佐宮本殿同様に、慶長三年に建造されたものだそうです。
白山宮は、菊理姫命を祀っています。
菊理媛神(くくりひめのかみ)は、加賀の白山や全国の白山神社に祀られる白山比咩神(しらやまひめのかみ)と同一神とされる。
※今年の秋に行った白川郷に立ち寄る前に歴史がある白山神社に訪れました。こちらも、別の機会に紹介します(-。-)y-゜゜゜
只、記紀神話においては、本文には登場せず、『日本書紀』の一書に一度だけ出てくるのみであると謎が多い女神です。
その記述もイザナミに逢いに黄泉の國に行ったイザナギが、イザナミの変わり果てた姿を見て逃げ出した際に・・・。
黄泉比良坂で追いつかれ、そこでイザナミと口論になった時に、泉守道者が現れ、イザナミの言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、イザナギはそれを褒め、帰って行った、とある。
その時に、菊理媛神が何を言ったかは記されておらず、その女神の出自なども記されておりません・・・。
重要文化財である山王神輿七基です(-。-)y-゜゜゜
全国の神輿のルーツで、その歴史は桓武天皇が日吉大神に寄進したことから始まるそうです。
また、僧兵の強訴でも有名で平安から室町の三百七十余年の間に四十数回の上洛強訴が行われたそうです。
こちらは、日吉大社東本宮本殿です。
文禄4年に西本宮本殿に引き続いて復興されたそうです。
こちらは、日吉雌梛です。
男性が女性の幸せを祈る木と云われています。
反対に女性が男性の幸せを祈る木である日吉雄梛もあります。
比叡山の湧水が流れており、こちらの水をペットボトルに入れて持ち帰っている方もいらっしゃいました。
『日吉山王権現知新記』によると、昔、ここには池があり、最澄が参拝の折、霊亀が現れ、占いによりここを仏様に捧げる水を汲む井戸となし『亀井』と名付けられたそうです。
山王祭の御蔭で・・・通行をいつもは禁じられている「二宮橋」を渡ることができました。
太閤秀吉しか渡ることが許させていなかったこの橋を渡ることができるとは幸運としか云いようがないです(-。-)y-゜゜゜
それにしても、春の旅は正倉院、山王祭、そしてこの二宮橋と当初予定していなかった幸運が重なったものとなりました。
ようやく、春の奈良・滋賀の旅の紹介も終わりを告げることが(-。-)y-゜゜゜




































