以下↓記事より抜粋

こちに書き込まれた内容に様々な誘導、

事実に反する記述も含まれている。参考になる

部分のみ抜粋。

しかも、海軍の部分の記述は色を変換出来たのでに、

陸軍登戸研究所の部分は頑なに妨害され、

文字色変換する事が出来なかった。

 

軍事兵器としての利用

「指向性エネルギー兵器」も参照

 

いくつかの国家では真剣に研究が行われ、

旧日本軍・登戸研究所などでも電磁波が殺人光線として

利用可能かどうかが研究された。

ただし日本での研究は敗戦に際して資料が破棄されたため

詳細は伝えられておらず、

怪力線などと呼ばれたものでは紫外線照射装置が

研究されていたなどという話もあるが不明瞭である

 

怪力線は風説だけが独り歩きし、電子レンジの元になった

とする都市伝説もあるものの、電子レンジの原理自体は

米レイセオン社のマイクロ波実験の過程で副次的に

発見され商品化されたものである。

なお、直接に対人殺傷を目的としていないものの、

ミサイル迎撃などの用途で指向性エネルギー兵器として

実用化された例がある。

 

Z兵器

 

太平洋戦争当時の大日本帝国海軍は、

電波を利用したエネルギー兵器の実用化を試みていた[2]

 

この「Z兵器」は、通信や探知(レーダー)など

間接兵器として使用されている電波を直接攻撃兵器として

運用できないか……という発想からスタートした[3]。

パラボラミラーによって電波を照射し、飛行機や自動車を

焼損破壊しようという企図であった[3]。

B-29型超重爆による日本本土空襲が始まると、

従来の高射砲や防空戦闘機(局地戦闘機)を凌駕する

対空兵器としてZ兵器の開発を急いだ[1]。

静岡県島田に大型パラボラミラーや反射鏡が設置され、

基礎実験をおこなう段階になっていたという[4]。

 

島田理化工業島田工場(島田製作所)(旧島田分室、島田実験所、

島田実験会)において、同所長水間正一郎、

海軍技術大尉伊藤庸二の下、旧東北帝国大学教授渡辺寧ら

によって真空管マグネトロンを用いた57種類の

高出力殺人光線「Z」が計画・開発実験され、

戦後GHQ科学情報調査団(コンプトン調査団)デイビット・

T・クリッグス博士によって査察を受け接収された事が、

島田製作所元職員八木春尚、牛込恵子(水間正一郎の娘)

と水間の遺された日誌、島田実験所元海軍技術大尉矢波

雅夫の証言、アメリカ国立公文書館に保管されたアメリカ陸軍

諜報部門が作成した文書簡(1945年10月23日)

およびワシントンポスト(1946年4月22日付)、米海軍訪日技術使節団(1945-1946年にグライムス海軍大尉作成)文書簡への取材を元に解明され、このことが2014年7月26日にTBSの報道特集において放映された(TBS報道特集「殺人光線「Z」 秘密実験所の深層 (2014/7/26 放送)」)。この分室では渡辺寧、宮島龍興、菊池正士、小谷正雄、渡瀬譲、小田稔などが研究していた[5]。島田実験所は1943年「強力極超短波」の兵器利用の研究のために設立されたものである。真空管とマグネトロンについてここで工学者と物理学者の間で研究が行われた[6]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E5%85%89%E7%B7%9A?fbclid=IwAR3KO8iGfmbUZYB0bPxiHwcVdJMji5QXc_an3QaGK1okq8w6dOFq_XKUn5M