2024年12月13日 現代ビジネス
いまから24年前、一頭のパンダが中国から神戸市の王子動物園にやってきた。阪神・淡路大震災復興のシンボルとなり、今年3月に惜しまれつつこの世を去ったタンタンだ。小さな体に短い手足。モフモフと、まるでぬいぐるみのような姿をしたタンタンは“神戸のお嬢さま”と呼ばれ、今なお大勢の人たちから愛されている。
提供/神戸市立王子動物園(現代ビジネス)
【写真】「隠し撮りがバレました…」パンダと飼育員さんの微笑ましすぎるやりとり
しかし、28年に及ぶパン生は決して平たんなものではなかった。ようやく生まれた赤ちゃんは生後4日目で亡くなり、パートナーのコウコウも不慮の死を遂げた。動物園に一頭だけ残されたタンタンを前に、飼育員の梅元良次(うめもとりょうじ)と吉田憲一(よしだけんいち)はある決意を強くする。
――タンタンの命を預かる自分たちが変わらなければ、ダメだ!
そして10年にわたるトレーニングを積んだ結果、人間と動物の垣根を超えたかたい絆で結ばれ、本場中国の専門家たちも驚く心臓疾患の治療に取り組むこととなる。2020年から5回にわたって放送したNHKのドキュメンタリー「ごろごろパンダ日記」をもとに、タンタンのドラマチックなパン生と、今なお多くの人たちの心を掴む魅力に迫っていく。
(全3回/第2回)
涙を誘うタンタンの偽育児
赤ちゃんが亡くなった2008年以降、タンタンの「ある行動」が、多くの人たちの涙を誘った。パンダの出産シーズンである夏になると、タンタンは餌の竹をいつくしむように抱いたままぺろぺろ舐めて、いっこうに食べようとしない。
提供/神戸市立王子動物園(現代ビジネス)
これは王子動物園では“偽育児”と呼んでいる行動で、タンタンは出産した気になって、竹を赤ちゃんに見立てて抱いているのだ。この偽育児、タンタンだけが特別なわけではなく雌のパンダに時々見られる。それでも、赤ちゃんに触れてからタンタンのなかで母性が芽生えたかのように感じさせるこの行動は、赤ちゃんやコウコウの死をずっと見守ってきた多くの観覧者たちの心を打った。
この偽育児の期間中は、飼育面でも難しくなる。食欲が極端に落ちるため、いつも以上に体調管理に気を使わなくてはならないのだ。少しでもタンタンが食べる気を起こすよう、梅元と吉田はタンタンが好みそうな竹を厳選するが、これが一筋縄ではいかない。一口に竹と言ってもその種類は様々。王子動物園で与えるのは孟宗竹(もうそうちく)・真竹(まだけ)・矢竹(やだけ)・淡竹(はちく)・女竹(めだけ)・布袋竹(ほていちく)・四方竹(しほうちく)・唐竹(とうちく)・根曲がり竹(ねまがりだけ)、隈笹(くまざさ)など。膨大な選択肢に加え、葉っぱや茎の部分など、食べたい部位も体調や時々の気分で変わる。その日タンタンが気に入る竹を選ぶのは至難の業で、長年タンタンの飼育を担当してきた梅元と吉田ですら頭を抱えることも珍しくない。タンタンはお腹が減っていても、気に入った竹じゃないと口にしないグルメパンダ、というわけだ。
10年にわたって行われた驚異のトレーニング
好きなものしか口にしないタンタンのグルメぶりをうまく利用して続けられたトレーニングがある。それはハズバンダリ―トレーニングと呼ばれる動物の健康管理法だ。果物など好物を使いながら「横になる」「口を開ける」「腕を柵から出す」など、検査や治療に必要な動きを動物に主体的にやってもらうよう教え込む。
提供/神戸市立王子動物園(現代ビジネス)
動物に協力してもらうので麻酔が必要なくなり、動物にかかるストレスも軽減される。現在、このハズバンダリ―トレーニングは世界中で取り組まれているが、日本の動物園では2000年を過ぎたころから広まりだした。日本ではそれまで動物の訓練と言えば、イルカやアシカにショーの動きを覚えてもらうために行うのが一般的で、野生動物にトレーニングをするのは不自然とみなされていた。その認識が変わったきっかけは、「動物福祉」という考えが動物園関係者の間に浸透したから。動物福祉とは、動物たちがストレスを感じることなく心身ともに健康で、幸せに暮らすという考え方で、日々の検査や治療でも、動物にストレスをかけないことが求められるようになった。
だが、ハズバンダリ―トレーニングを取り入れた理由は、もう一つあった。それは、絶対にタンタンを守るという強い信念に突き動かされたから。赤ちゃん、コウコウと次々に亡くし、自分たちの飼育方法を見直そうと考えていたとき、梅元が中国でハズバンダリ―トレーニングに出会った。
高齢パンダに限らず、中国ではパンダの飼育や疾患の治療、繁殖などの分野で高度な研究が行われており、そのスキルを身に着けるため、世界中の動物園からパンダの飼育員が中国の施設に研修に行く。王子動物園からも梅元と吉田がそれぞれ3回、四川省にある中国ジャイアントパンダ保護研究センターを訪ねている。
2011年、梅元は雌パンダの発情期の行動を学びに行ったが、何より驚いたのはリンゴやハチミツを用いたハズバンダリ―トレーニングだった。当時、タンタンはステイ(待て)とダウン(仰向け)程度しかできなかったが、中国の飼育員たちはパンダの歯の検診や、採血など、様々な検査や治療をごく自然に行っていた。このハズバンダリ―トレーニングにタンタンと取り組めば、病気にかかった時、きっと役立つに違いない。その思いは、梅元に続いて中国に渡った吉田も同じだった。
二人は帰国後、ハズバンダリ―トレーニングについて専門書などで勉強し、少しずつタンタンと一緒に訓練に取り掛かった。
だが、言葉の通じないタンタンには動作を1つ覚えてもらうにも、気の遠くなるような時間がかかる。例えば、腕から注射器で血を抜く「採血」ができるようになるまでには、半年以上もの間、特訓を続けた。最初に覚えてもらうのは柵に取り付けられた小さな穴から手を出すこと。たまたま手を出した時、ご褒美にタンタンの好物であるリンゴやブドウをあげる。そうすることで『穴から手を出せばご褒美がもらえる』ということをタンタンは覚える。
次は手を出した状態を保つ練習。注射器で血を抜く間はじっとしておかなければならないので、体勢を維持する必要がある。ここでもリンゴやブドウを使って少しずつ時間を延ばしていく。
続いては注射針に慣れさせる訓練。といっても、いきなり針を刺すようなことはしない。そんなことをしたら『この穴から手を出したら痛い目にあう』と悪いイメージを持ち、二度と手を出してくれなくなる。そこでまずは先の丸まった針を、腕の内側にあてることから始める。
タンタン、最初のうちは違和感を覚えてすぐに手を引っ込めてしまったが、リンゴやブドウを与えながら根気強く訓練を繰り返すと、次第に『先の丸まった針は怖くない』と覚えてくれた。
訓練を繰り返すことでついに針がついた注射器にも慣れ、やがて刺されることも嫌がらなくなる。こうしたステップを踏んで、ようやく採血ができるようになるのだ。このハズバンダリ―トレーニングを毎日、10年間も続けた結果、タンタンは採血のほか歯の検診やレントゲン撮影など、10種類以上もの検査や治療を受けられるようになった。
かたい絆で結ばれたタンタンと二人の飼育員
このハズバンダリ―トレーニングを取り入れたおかげで、進行を食い止めることができた病気がある。それは2017年に見つかった真菌性角膜炎という目の病気。パンダがかかることは稀だが、放っておけば失明の恐れもあった。
提供/神戸市立王子動物園(現代ビジネス)
抗真菌剤を点眼するしか症状を改善させる方法はなかったが、言葉の通じないタンタンにどう目薬をさすかが問題となった。そこで梅元と吉田はハズバンダリ―トレーニングでタンタンの動きを止め、まぶたの内側に目薬をさしたところ、タンタンは薬剤が流し込まれる間、動きを止めじっと耐え続けた。
通常、目に異物が近づいてきたら攻撃してでも守ろうとするのが野生動物の習性だが、タンタンは梅元と吉田の「ステイ」の指示をかたくなに守ったのだ。これは教えられたことは絶対に守るタンタンの真面目さと、タンタンと二人の飼育員の間に強い信頼関係が結ばれていたことで成し遂げられた偉業だろう。
この数年後、タンタンと二人の飼育員はパンダにとって不治の病ともいえる心臓疾患とのたたかいに挑むこととなる。そのとき、このハズバンダリ―トレーニングを駆使することで、本場中国の専門家たちも絶賛した驚きの治療法が実施されることとなる。 (第3回に続く)