「クマに食われた人がいるって本当ですか?」通報から2時間、ヒグマの牙が骨にまで… | トピックス

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2023年3月20日 文春オンライン

 

 2014年10月11日、北海道千歳市の住宅地からわずか4キロしか離れていない山林で、その「事件」は起きた。

 

「30年キノコ採りをやっていて、その山林には年間40回ぐらいは入ってました。ヒグマのフンや足跡は見たことがありましたが、ヒグマそのものに出くわしたのは、そのときが初めてでした」

 

 

 そう語る真野辰彦(68)の右腕には、あれから8年経った今もそれと分かる噛み傷が残っている。私が真野に話を聞きたかったのは、彼がキノコ採り中に遭遇したヒグマと必死に格闘し、大ケガを負いながらも奇跡的に生還を果たすという稀有な経験を持つ人物だからである。(全2回の2回目/前編から続く)

 

「クマに食われた人がいるって連絡があったんですが、本当ですか?」

 クマの気配が消えたことを確認すると、真野は首にかけていたタオルを頭の咬傷にあてがい、止血の応急措置を行った。アドレナリンが出ているせいか、不思議なほど痛みは感じなかった。続いて、携帯電話を取り出し、警察に電話をかけようとしたが、全身血まみれで指が血で滑ってなかなかかけられない。苦労してようやく110番に繋がり、クマに襲われたこと、救助を求めていることを伝えた。

 

 

「ただ千歳の警察ではなく、中央の指令センターのようなところに繋がったので、こちらの位置を伝えようにも、むこうも土地勘がないので、なかなか伝わらない。それに当然ながら、その電話で救急車の手配まではできないと言われまして……」

 

 電話を切って、改めて消防に連絡しようとしていたところに、電話がかかってきた。

 

「なんかクマに食われた人がいるって連絡があったんですが、本当ですか?」

 

 警察から連絡を受けた千歳市消防本部からの電話だった。「実はここからが長かったんです」と真野が苦笑する。消防に現場の位置を伝えている間に、警察のヘリが飛んできたのだが、なかなかこちらを見つけられない。しばらく付近を探していたものの、やがて燃料が切れたのか、帰っていってしまった。犬のブンタはいつの間にか、そばに戻ってきていた。

 

救急車が、現場に通じる細い山道へ入れない

「私を心配して、傷口をペロペロ舐めようとするんですね。その気持ちは有難いんですが、雑菌でも入ったらいけないから、これにはちょっと閉口しました(苦笑)」

 

 その後、消防と電話していると、一度は出動した救急車が現場に通じる細い山道に入ることができずに、戻ってしまったという無線でのやりとりも電話口から洩れ聞こえてきた。

 

「そもそも何の目印もない山の中なので、現場の場所を正確に伝えるのも一苦労でした」

 

 ついには真野が現場に土地勘のあるキノコ仲間の1人に電話して、救急隊員への道案内を頼んだ。最終的にこれが功を奏して、無事に救助隊に発見された真野は、即席の担架がわりの毛布でライトバン(救急車が山道に入って来れなかったため)へと運ばれた。

 

「そのときになってようやく痛みを感じるようになって。運ばれているときに、どうしても木とか枝に当たるでしょ。そのたびに私が思わず『イタタ!』と声をあげてると、しまいにはキノコ仲間に『うるさい、黙っとれ』と怒られてしまいました」

 

 ドクターヘリで札幌市内の病院へと運ばれたときには、最初の通報から実に2時間が経過していた。

ヒグマの牙は骨にまで達していた

 翌日付の北海道新聞は、この一連の経緯をこう報じている。

 

〔午後0時10分ごろ、千歳市藤の沢の山林で、キノコ採りをしていた千歳市内の男性会社員(59)がクマに襲われて、頭や腕をかまれ、右足首を骨折する重傷を負った。男性はドクターヘリで札幌市内の病院に運ばれたが、命に別状はないという〕

 

 

 だが記事から受ける印象以上に病院での診断の結果は、壮絶なものだった。

 

〈右距骨下関節内側脱臼、左足関節後方脱臼骨折、右頭部・上肢多発熊咬傷、第5中手骨開放骨折、右尺骨・上腕骨・舟状骨剥離骨折、左第4・5助骨骨折、右長母指伸筋腱癒着・断裂〉

 

 医師によると、クマの牙は右腕の骨にまで達していた。クマの顔面を蹴った真野の右足ばかりか、軸足となった左足関節まで一瞬で骨折させた事実は、クマの凄まじいまでの瞬発力と破壊力を物語っている。

 

「でも幸運だったんです」生死を分けたのは…

 結局真野は、リハビリを含めて3カ月の入院生活を余儀なくされた。

 

「でも幸運だったんです」と真野が振り返ることがある。ひとつにはその半年前に携帯電話のキャリアをauからdocomoに替えていたことである。その山林ではauは通じなかったが、docomoは通じた。もし携帯を替えていなければ、「確実にアウトだった」。またいつもは怠りがちだが、その日はたまたま充電を満タンにしていたため、途中で電池切れになることもなかった。さらに言えば満身創痍ながらも、意識ははっきりとし、喋るのには支障がないケガだったことも幸いしたという。

 

 入院中、北海道立総合研究機構のヒグマの専門家による聞き取り調査を受けた。専門家の見立てでは、当該クマはその体格と子連れでなかった点から、「若いメスではないか」とのことだった(その翌年、真野が襲われた現場近くを流れる川で釣りをしていた人がメスのヒグマに追いかけられ、荷物を漁られる事件があった。このヒグマはハンターにより駆除されたが、メスのヒグマの行動半径は、4~5キロとされているので、真野を襲ったヒグマと同一個体であったとしても不思議ではない)。

 

 

なぜクマは途中で立ち去ったのか?

「事件後もキノコ採りには行ってます。でもさすがに1人で山に入るのは今でも怖いですね。トラウマにはならないかな、と思っていたんですが、いざ山に入るとやっぱりあのときの恐怖がよみがえります」

 

 一方でこの経験以降、個人的にヒグマの生態や人間社会との関わりについて調べるようになったという(私が取材した際にも、ヒグマに関する記事が丁寧にスクラップされた分厚いファイルを持参していた)。

 

 その真野は今、改めて事件を振り返って何を思うのだろうか。

「あれは、お互い『不幸な遭遇』だったと思っています。もともとクマの生息地にこちらがキノコ採りで立ち入っていますので当然、クマに非はありません。私の方から先に手をだしたわけですし」

 

クマがトドメを刺さなかったから生き残れた

――先に手を出さなければよかった?

「あぁ、手を出さなければどうなっていたかわからないですね。ただ……その余裕はなかったです。もう少し距離があれば、例えば5、6メートル離れていたら、私も別の判断ができたかもしれないですが、本当にお互い手が届く距離で出会い頭だったもんだから、反射的に手が出ちゃいましたね」

 

 それにしても、高枝鎌(長い柄のついた鎌)で攻撃してきた真野を「脅威」とみなし、これを排除するべく攻撃を加えていたクマはなぜ途中で立ち去ったのだろうか。

 

「キノコ仲間からは、犬が戻って来るのに気付いたからクマが逃げたんだろうと言われました。本当の理由はわかりませんが、いずれにしろクマがトドメを刺さなかったから生き残れたのは確かです」

 

8年前の事故は、何よりも重い「教訓」に

 あれから8年が経ち、近年ではさらにクマの生息地が人間の生活圏に近づいていることが指摘されている。

 

「私としては、クマを害獣として過度に駆除を要求すること、反対に動物愛護の立場から過度に保護を訴えること、いずれにも反対です。クマと人間の領域をきちんとゾーニング(住み分け)し、そのゾーニングを維持・管理するために一定程度の駆除を認めるという方向がいいと思ってます。

 

 一方で、これは私自身の反省もふまえた上でですが、近年、盛り上がりを見せているバックカントリースキーやアドベンチャートラベルなど自然を舞台にした観光事業が、安全面での対策があまりに未熟なまま進められていることを危惧しています。ヒグマに限らず、相手が自然である以上、人間の思い込みや予測を越える危険が付きものであることを理解した上で、十分すぎるほど十分な対策が為されることを切に望んでいます」

 

 支笏湖のパークボランティアも務める真野にとって、自身の身に起きた8年前の事故は、何よりも重い「教訓」となっている。

 

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