北海道の歴史についてネットで検索してみた。
それらの内容をまとめると以下のようになる。
北海道は、日本の北海道地方に位置する。
道庁所在地は札幌市で、47都道府県中唯一の「道」である。
行政区画の「北海道」を構成する最大の島自体も北海道と称されるが、区別するときには北海道本島とも称する。
北海道のことをアイヌの言葉(アイヌ語)では、「アイヌモシリ」または「ヤウンモシリ」と呼ぶ。
日本人(和人)は古代には渡嶋(わたりのしま)、近代に至るまでアイヌを蝦夷(えぞ)、その土地を蝦夷地(えぞち)もしくは北州、十州島などと呼んでいた。
ロシアの進出に伴い江戸時代末期になると「異民族の住む地」を意味する「蝦夷地」のままではいけないという意見がみられたものの改称は実現しなかった。
明治政府は開拓使の設置に伴い名称の変更を検討。
1869年(明治2年)、蝦夷地探査やアイヌとの交流を続けていた松浦武四郎は政府に建白書を提出し、「日高見道」「北加伊道」「海北道」「海島道」「東北道」「千島道」の6案を提示した。
明治政府は「北加伊道」を基本とし「加伊」を「海」に改め、「北海道」とすることを決定した。
明治2年8月15日太政官布告により「蝦夷地自今北海道ト被稱 十一ヶ国ニ分割國名郡名等別紙之通被 仰出候事」と周知された。
なお、松浦は建白書において「北加伊道」案はアイヌが自らを「カイ」と呼んでいることから考案したと説明している。
北海道は他の「都・府・県」と同格の地方自治法における普通地方公共団体(都道府県)のひとつだが、他の都府県では「東京」「大阪」「京都」「福岡」のように行政区分を示す「都」「府」「県」を省略する呼び方があるのに対し、北海道の「道」を外して単に「北海」という呼び方をすることは普通ない。
なお、「北海」が社名や学校名などの固有名詞の一部分に使用される例(北海タイムス、北海学園大学など)はある。
一方、「道」である普通地方公共団体は北海道のみであることから、「道」が「道産米」「本道」「道外」など、事実上北海道を唯一的に指し示す語彙(ごい)として広く普及している。
「北」が略称となる場合もあり、例えばJR北海道は「JR北」、北海道畜産公社は「ホクチク」と呼ばれる。
1886年(明治19年)から1947年(昭和22年)まで北海道を管轄した地方行政官庁は、北海道庁であった。
この場合、「北海道」は単なる地域呼称であって、「北海道庁」が「東京府」や「青森県」などと並んで置かれた官庁の名である。
この「北海道庁」は、現在用いられているような地方自治体の中央官庁ではない。
1901年(明治34年)に北海道会法および北海道地方費法が公布・施行されて「北海道会」という議会を持つ地方自治体となったが、自治体としては「北海道地方費」と呼ばれた。
戦後、1946年(昭和21年)の第1次地方制度改革で市制・町村制・東京都制とともに府県制が改正された際、北海道会法と北海道地方費法が廃止されて道府県制に統合された。
また改正法律の附則の規定により、従来「北海道地方費」と呼ばれていた自治体を「道」と呼ぶこととされた。
地方行政官庁としての北海道庁は1947年(昭和22年)の地方自治法施行により、「北海道庁官制」とともに廃止され、同法に基づく普通地方公共団体としての北海道となった。
日本の近代化のための資源開発を目的とした北海道開拓がスタートする。
札幌や小樽を中心として、道路・港湾・鉄道の整備や、鉱山の開発、官営工場の設立などが次々と行われ、北海道の産業は発展していった。
開拓を担う人材の育成も同時に行われ、この時期に開学した「札幌農学校(現在の北海道大学)」では、新渡戸稲造や内村鑑三などが学んだ。
それまで鎖国していた日本は、特に自然科学の分野で欧米に遅れをとっていた。
そこで明治政府は、最新の知識や技術を取り入れるべく、諸外国から専門家を日本に招いた。
北海道では、開拓使長官の黒田清隆が招いた、アメリカ政府農務局長のケプロンが開拓使顧問となり、札幌農学校の教頭となったクラーク博士などの優秀な人材を次々と呼び寄せた。
12年間で78人にものぼったお雇い外国人は、北海道に高度な学問や技術をもたらした。
開拓使は、欧米の文化・技術を積極的に取り入れ、それをもとに農業、鉱工業などの新しい産業を興し、交通を整備し、開拓の基盤を固めるとともに、北方の警備に努めた。
明治15(1882)年2月、開拓使が廃止となり、札幌・函館・根室の三県が置かれる(函館県・札幌県・根室)。
翌年には農商務省の北海道事業管理局が置かれ、北海道の行政を担った。
明治19(1886)年1月、政府は三県一局を廃止し、北海道庁を設置した。
そして、明治時代の半ばころから、北海道への移民が急激に増加し、開拓が著しく進展した。
北海道庁は、移住に関する情報を広めるため、表紙を北海道の情景や産物で飾り、北海道の概況や土地取得の手続きなどをまとめた「北海道移住手引草(明治33(1900)年に北海道移住案内を改題したもの)」などを発行し、府県や町村を通して大量に配布した。
明治初期には、明治維新で新政府と対立し、領地を失った旧会津藩・仙台藩など、東北地方の士族たちが多数北海道に移住した。
彼らは旧領主を中心に集団で移住し、主従の固い結束のもとに、開拓を成功に導いた。
その後、家禄(武士に与えられた給料)の処分が進められたため、全国的に失業士族が増し、士族授産(士族に職を与えること)政策に力がそそがれた。
その結果、国や元の藩主・領主などの援助のもとに各地から多数の士族が移住した。
北海道に本州各地の地名が残っているのはそのためである。
屯田兵制度は、ロシアの南下に対する国防と北海道の開拓、さらに士族授産を兼ねて設けられた。
明治8(1875)年から同32(1899)年までに道内各地に37の中隊(兵村)が配置され、7,337戸、家族を合わせると約4万人が入植した。
明治23(1890)年までは士族、そのあとは平民が主体だった。
本州で移住希望家族を募集し、適格者は現地までの旅費・支度金が与えられ、さらに兵屋と給与地のほか、3年間は米や塩菜料などが支給された。
彼らは厳しい規律のもとで、開墾・営農と軍事訓練に励んだ。
明治初期には広い未開地の払い下げを受けた開墾会社に応募して移住した人々もいた。
多くは資金が乏しく、北海道の農業に不慣れだったため、移住後は苦難の道を歩かなければならなかった。
明治後期になると小作農民を移住させて大農場を経営する開墾会社が多数成立した。
士族移民や屯田兵、農業移民などの集団移民に対して圧倒的に数が多かったのが単独の農民移住で、その中には、自作農となった人々のほかに、大農場の小作移民も含まれている。
北海道移民の中で最も多かった農業移民のほかに漁民や商工業者、鉱山や土木工事の労働者など多様な職種の移民がある。
明治初期から大正11年までの北海道移民の総数は約200万人で、明治後期からは毎年5万人~8万人が移住した。
大正4~8年に、道内各地に集団で入植した66の農業団体について調査した結果によると、全体の66%に相当する44団体が生計困難を移住の動機としてあげている。
これ以外では、北海道の農業経営が有望と考えた者、自分の土地を所有して独立した経営を望んだ者、天災・治水工事等で土地を失った者がそれぞれ10団体前後もあり、北海道移住がさまざまな理由から行われたことがわかる。
明治2(1869)年に約6万人にすぎなかった北海道の人口は、開拓使、三県時代を経て、北海道庁が設置された明治19(1886)年には約30万人になった。
その後、急激に増加を続けて明治34(1901)年には100万人を超え、開道50年にあたる大正7(1918)年には217万人を数えるまでになった。
また、明治19(1886)年に3万町歩(29,730ヘクタール)にも満たなかった耕地面積も大正7(1918)年には約80万町歩(792,800ヘクタール)に達した。
現在の北海道の人口は、約520万人(令和3年3月現在)。
現在の北海道に至るまでには、長い苦難の道のりがあったのだ。
その間にアイヌ民族には同和政策が取られ、アイヌの人々は日本語を学ばされ、狩猟採集生活から農民になることを強制されたという経緯もある。
北海道は和人の植民地だったとも言える。
入植は昭和になっても続いた。
開高健の『ロビンソンの末裔』は、戦後に北海道に入植した開拓移民たちの姿を描いている。
〈『ロビンソンの末裔』〉
読むと、そんな最近の入植でもワラ小屋で厳しい冬を越すなど、ちょっと信じがたい内容だ。
私は大晦日に氷点下15℃の厚岸で雪中キャンプをしたことがあるが、寒くて眠れたものではなかった…。
しかしこの小説はノンフィクションに近いものらしいので、実際そうだったのだろう。
私は40年前に仙台から札幌に“入植”した(笑)。
古くて狭かったがアパートに住み、ストーブで暖を取りながら冬を越した。
外に出れば冬はものすごい雪に驚いたものだが、次の年にはその雪にも慣れた。
夏は過ごしやすく、道内各地をクルマで回っては釣りをしまくった。
近年は北海道でも夏が暑くなってきているが、今は比較的涼しい千歳に移っているので、そんなに困ってはいない。
でも、千歳でもどんどん暑くなっていくのだろうな。
エアコンなしでは暮らしていけなくなる日が来そうに思う。
【ダイエット記録】目標達成体重より+0.5キロ。
